山崎釼二 山崎釼二の概要

山崎釼二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/30 01:31 UTC 版)

山崎釼二

経歴

静岡県駿東郡御厨町(現:御殿場市)出身[1]1915年御殿場実業学校卒[注 1][2]。卒業後は満洲に渡り、満鉄に入るが[1]社会主義に関心を寄せ、満鉄を退職し、帰国した[1]。帰国後は東京帝国大学聴講生として通い[1]、帰郷。以後、農民運動の指導者になる[1]。この間、看護婦藤原道子と結婚した[3]

その後、労働農民党社会大衆党に入り[1][2]沼津市議、静岡県議を経て[1][2]1936年第19回衆議院議員総選挙において静岡2区(当時)から社会大衆党で立候補して初当選する。翌年の第20回衆議院議員総選挙でも再選。1942年第21回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。同年、日本占領中のボルネオ(現在の東マレーシア)に渡り、ケニンガウ州知事となる[1]

敗戦により、1946年に帰国するが、戦後第1回の総選挙(第22回衆議院議員総選挙)には間に合わず、妻の道子が日本社会党公認で立候補した。しかし、ボルネオ人女性とその間に生まれた子を連れての帰国だったため、道子は衝撃を受けた[4]。道子は当選したものの、道子は釼二との離婚を決意した。釼二も日本社会党に入り、翌年の第23回衆議院議員総選挙では釼二と道子は同じ静岡2区から立候補するが、釼二は無所属、道子は社会党から立候補し、選挙の結果、道子は当選、釼二は落選した[5]

1950年に離婚が成立した(道子はこの年から参議院に鞍替え)。釼二は翌1951年に沼津市議に再び当選[1]1952年第25回衆議院議員総選挙に社会党右派から立候補したが落選[5][6]、翌年、離党[1]。その後ブラジルに渡り、農園を開いた[1][2]。1958年同地で死去した。

参考文献


注釈

  1. ^ 『新訂 政治家人名事典 明治〜昭和』648頁では「大正7年(1918年)卒」と記載。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 『新訂 政治家人名事典 明治〜昭和』648頁
  2. ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』679頁。
  3. ^ 『新しき明日の来るを信ず-はじめての女性代議士たち』23頁
  4. ^ 『新しき明日の来るを信ず-はじめての女性代議士たち』19頁
  5. ^ a b 『朝日選挙大観』508頁。
  6. ^ 『新しき明日の来るを信ず-はじめての女性代議士たち』31頁


「山崎釼二」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「山崎釼二」の関連用語

山崎釼二のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



山崎釼二のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの山崎釼二 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS