天智天皇 諡号

天智天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/31 02:09 UTC 版)

諡号

和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。漢風諡号である天智天皇は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代淡海三船が撰進した。森鴎外は『帝諡考』において、その典拠に『逸周書』世俘解、『淮南子』主術訓、『韓非子』解老篇を候補に挙げている。

陵・霊廟

天智天皇陵(京都市山科区)

(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市山科区御陵上御廟野町にある山科陵(やましなのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は上円下方八角)。遺跡名は「御廟野古墳」。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。崩御の天智天皇10年12月3日はグレゴリオ暦672年1月10日に相当するので、1月10日に御陵で正辰祭が行われる(1月7日はユリウス暦)。

百人一首(天智天皇の読み札)

万葉集に4首の歌が伝わる万葉歌人でもある。百人一首でも平安王朝の太祖として敬意が払われ、冒頭に以下の歌が載せられている。

  • 秋の田の かりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ[注釈 2]
    「屋根を葺いている苫が粗いので、私の袖は夜露にしっとり濡れてしまった」農民のことを思って読んだ歌百人一首の最初の歌。

万葉集からも以下の一首。大和三山を詠んだ歌といわれているが、原文は香具山でなく高山であり、大和天香久山ではない、畝火や耳梨は山ではないなど多くの異論がある。

  • 香具山は畝火雄々(を愛)しと耳梨と相争ひき神代よりかくなるらし古へもしかなれこそうつせみも嬬(妻)を争ふらしき
    原文「高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍競伎神代従如此尓有良之古昔母然尓有許曽虚蝉毛嬬乎相挌良思吉」

遣新羅使

  • 668年(天智天皇7年) 新羅文武王の代に使節を送った
  • 670年(天智天皇9年) 新羅の文武王の代に使節を送った

注釈

  1. ^ 扶桑略記』では病死説の後一説として「一云 天皇駕馬 幸山階鄕 更無還御 永交山林 不知崩所 只以履沓落處爲其山陵 以往諸皇不知因果 恒事殺害」とあり山中で行方不明になったとされている。これには四国の山中で崩御した説があり、愛媛県の大生院郷土誌では「天智天皇が京都をお立ちになった後、ひそかに当国へ行幸なされたが、この地に崩御あそばされ、おそれおおくも御陵地とせられた所で、後世の人が神社としたものである。」と記されている。この他にも天武天皇側による暗殺説もあり、「日本書紀は天武天皇側が編纂したものなので自分たちに都合の悪いことは書かない」と扶桑略記の信憑性は高い[要検証]との見解[誰?]もある。
  2. ^ よく似た「秋田刈る仮庵を作りわが居れば衣手寒く露そ置きにける」というのが万葉集に詠み人知らずと収められている。内容から農民が詠んだ歌で、その辛さを思いやる慈悲深い天皇の心を示す歌として語り継がれるようになった[4]

出典

  1. ^ 漏刻について”. 近江神宮時計館宝物館. 2018年8月19日閲覧。
  2. ^ 高島正人『藤原不比等』吉川弘文館〈人物叢書〉、1997年、62頁。 
  3. ^ a b c d e 倉本一宏『蘇我氏 古代豪族の興亡』(中央公論新社 2015年)
  4. ^ 田辺聖子『田辺聖子の古典まんだら』 上、新潮社〈新潮文庫〉、2013年、65頁。 






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