哲学 哲学への批判

哲学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/27 05:00 UTC 版)

哲学への批判

現代理工医学からの批判

脳神経科学・コンピュータ科学・AI研究からの批判

」や「意識」という問題を解明してきた脳科学計算機科学(コンピュータサイエンス)・人工知能研究開発等に関連して、神経科学者分子生物学者フランシス・クリック

哲学者たちは2000年という長い間、ほとんど何も成果を残してこなかった。

と批判している[63]。こうした観点において、哲学は「二流どころか三流」の学問・科学に過ぎない、と評価されている[63]。脳科学者の澤口俊之はクリックに賛同し、次のように述べている[63]

これは私のため息まじりの愚痴になるが、哲学者や思想家というのはつくづく「」だと思う。[63]

実際、哲学は暇(スコレー)から始まったとアリストテレスが伝えており、上記のような否定的発言も的外れではないと、科学哲学者の野家啓一は言う[63]。また、うつ病の有無を血液(血中PEA濃度)で計測する検査法を開発し、臨床現場でも用いている心療内科医川村則行

“心”という目に見えないもので語るより、病気と同じように物質で解き明かしたほうが理解しやすい。
精神疾患は“物質の病気”であり、“体の病気”である。

等と述べている[64][注 28]

数学・論理学・数理論理学からの批判

数学者論理学者である田中一之[67]

一般の哲学者は、論理専門家ではない。

と述べている[68]計算機科学者(コンピュータ科学者)・論理学者電子工学者・哲学博士(Ph.D. in Philosophy)であるトルケル・フランセーン[67]は、哲学者たちによる数学的な言及の多くが

ひどい誤解自由連想に基づいている

と批判している[69][注 29]。田中によると、ゲーデルの不完全性定理について哲学者が書いた本が、フランセーンの本と同じ頃に書店販売されていたが、哲学者の本は専門誌によって酷評された[68]。その本は全体として読みやすく一般読者からの評判は高かったが、ゲーデルの証明の核(不動点定理)について、根本的な勘違いをしたまま説明していた[68]。同様の間違いは他の入門書などにも見られる[68]

フランセーンによれば、不完全性定理のインパクトと重要性について、しばしば大げさな主張が繰り返されてきた[71]。たとえば

「数学の思考に変革をもたらした」「数学ばかりでなく、科学全体も一新した」 「数学だけではなく、哲学、言語学計算機科学宇宙論にまで革命を起こした」

という言があるが、これらは乱暴な誇張とされる[71]。不完全性定理が一番大きな衝撃を与えたと思われる数学においてさえ、「革命」らしきものは何も起きていない[71]。1931年にゲーデルが示した「不完全性定理」とは、「特定の形式体系Pにおいて決定不能命題の存在」であり、一般的な意味での「不完全性」についての定理ではない[72]。不完全性定理以降の時代にも、数学上の意味で「完全」な理論は存在し続けているが[72]、“不完全性定理は数学や理論の「不完全性」を証明した”というような誤解が一般社会・哲学・宗教神学等によって広まり、誤用されている[73]

数学者ダヴィット・ヒルベルトは「数学に“イグノラビムス(ignorabimus, 永遠に知られないこと)”はない」と述べた[74]。数学上に不可知は無く、全ての問題は最終的に解決されるというヒルベルトのこの見方は、「ノン・イグノラビムス」として知られている[75]。ゲーデル自身も以下の、「ノン・イグノラビムス」的なヒルベルト流の見解を持っていた[76]

あらゆる算術の問題をその中で解決する単一の形式体系を定めることは不可能であっても、
新しい公理推論規則による数学の拡張が限りなく続いていくなかで、どんな算術の問題もいずれどこかで決定されるという可能性は排除されていない。[76]

哲学等において「不完全性定理がヒルベルトのプログラムを破壊した」という類の発言がよくあるが、これは実際の不完全性定理やゲーデルの見解とは異なる[77]。正確に言えば、ヒルベルトの目的(数学の「無矛盾性証明」)を実現するには手段(ヒルベルト・プログラム)を拡張する必要がある、ということをゲーデルが不完全性定理を通して示したのだった[77]日本数学会が編集した『岩波 数学辞典』第4版では、不完全性定理について次の通り記述されている[78]

ゲーデルも書いているように,有限の立場は特定の演繹体系として規定されるものではないから,彼の結果はヒルベルトの企図を直接否定するものではなく,実際この定理の発見後に無矛盾性証明のための様々な方法論が開発されている.[78]

量子論・量子力学・理論物理学からの批判

哲学者は、科学とは違う日常的言語で「宇宙」や「存在」を語ろうとしてきた[79]。しかし、量子論を創設した一員である理論物理学ディラックは、哲学者をことさら信用していなかった[80]。ディラックが居た頃のケンブリッジ大学で、一番の論客として鳴らしていたのは哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインだったが、彼を含め哲学者たちは、量子波動関数不確定性原理について的外れなことばかりを発言し記述しており、ディラックの不信は嫌悪に変わった[79]。ディラックが見たところ、哲学者たちは量子力学どころか、パスカル以降の「確率」の概念さえ理解していない[79]

ディラックの考えでは、非科学的な日常的言語をいくら使っても、正確な意思疎通を行うことはできない[80]。量子力学を説明してくれと言う家族や友人に対してディラックは、「無理です」と言って黙り込むのが常だった[79]。どうしても説明してほしいと迫る友人に、ディラックは「それは目隠しした人に触覚だけで雪の結晶がなにかを教えるようなもので、触ったとたん溶けてしまうのだ」と返した[79]

宇宙の背後にある「語り得ぬもの」または「」について、ウィトゲンシュタインは「もちろん言い表せないものが存在する。それは自らを示す。それは神秘である」[注 30]と述べたが、こういった哲学的考えは、理論物理学者から疑問視されている[81]。何故なら、「語り得ぬ」はずの「無」について、科学的に言語化する手がかりが既に見つかっているからである[82]。例えばペンローズの「ツイスター理論」、アシュテカーの「ループ重力理論」、ロルとアンビョルンの「因果的動的三角分割理論」等の研究が進められている[82]

生物学・進化生物学・進化生態学からの批判

利己的な遺伝子』の序文で、進化生物学者リチャード・ドーキンス

多くの批判者、とりわけ哲学を専門とする声高な批判者たちは、タイトルだけで本を読みたがる

と述べている[83]。前掲書の第一章ではこう述べる[84]

生命には意味があるのか? 私たちは何のためにいるのか? 人間とは何か? といった深遠な問題に出くわしても、もう迷信に頼る必要はない。著名な動物学者G・G・シンプソンはこの最後の疑問を提起したあとで、こう述べている。
「私が強調したいのは、一八五九年[『種の起源』]以前には、この疑問に答えようとする試みはすべて無価値だったことと、回答せずに黙っているほうがましだったということである」。[85]
哲学と、「人文学」と称する分野では、今なお、ダーウィンなど存在したことがないかのような教育がなされている。こうしたことがいずれ変わるであろうことは疑いない。 …
この本の主張するところは、私たち、およびその他のあらゆる動物は、遺伝子によって創り出された機械にほかならないというものだ。 … 私がこれから述べるのは、成功した遺伝子に期待される特質のうちで最も重要なのは非情な利己主義である、ということだ。 … 遺伝子が個体レベルにおけるある限られた形の利他主義を助長することによって、自分自身の利己的な目標を最も達成できるような特別な状況も存在する。この文の「限られた(limited)」と「特別な(special)」という語は重要な言葉だ。
そうでないと信じたいのはやまやまだが、普遍的な愛とか種全体の繁栄などというものは、進化的には意味をなさない概念にすぎない。[86]

また進化生物学者・社会生物学者ロバート・L・トリヴァースは、前掲書へ以下の序文を寄稿した[87]

チンパンジーと人間とはその進化の歴史のほぼ九九・五%を共有している。にもかかわらず、大多数の人間の思想家たちは、チンパンジーをでき損ないで見当違いの化けものと見なし、一方自分たち人間は全能への踏み台だと思っている。
進化論者から見れば、そのようなことはありえない。一つのを他の種より上に見る客観的根拠などは存在しないのだ。[87]

同時にトリヴァースは「定量的データ」による実証を強調しており[88]、『利己的な遺伝子』を邦訳した一員、動物行動学者日髙敏隆は「この本に書かれた内容を完全に理解するためには、数学の言葉が必要である」としている[89]

哲学や人文学からの批判は、生物学へ、そして生物学について解説したドーキンスへ向かった[90]。その批判は例えば、遺伝子の理論を極端に単純化して捉えつつ、遺伝子との関連が薄い事物を同列に置いていた(「遺伝子は利己的でも非利己的でもありえない。原子がやきもち焼きだったり、ゾウが抽象的だったり、ビスケットが目的論的だったりすることがありえない以上に」等)[90]。批判に対しドーキンスは、前掲書の中で「利己的」等の生物学用語を挙げつつ「このような言い回しは、それを理解する十分な資格を備えていない(あるいはそれを誤解する十分な資格を備えたというべきか?)人間の手にたまたま落ちるということさえなければ、無害な簡便語法である」と反論した[90]。彼は次のようにも記している[91]

哲学という道具を教育によって過剰に賦与された一部の人々は、それが役に立たない場合にもその学問的装置でつつき回す誘惑に抵抗できないように思われる。
私は、「しばしば高度な文学的・学問的趣味を持ち、しかし分析思考を実行する能力をはるかに超えた教育を受けてきた膨大な数の人々」に対する「哲学的絵空事(フィクション)」の魅力についてのP・B・メダワーの意見を思い起こす。[91]

また前掲書中でドーキンスは、文化的自己複製子ミーム」の理論に関して

哲学的だろうが、そうでなかろうが、私の主張に欠陥があるとは誰も指摘できていないのが事実である。

と述べている[92]。彼によると、破壊的で危険なミームの典型例は宗教であり、「信仰精神疾患の一つとしての基準を満たしているように見える」[93]

なお、『利己的な遺伝子』の邦訳者の一員である進化生態学者岸由二は、40周年記念版(2018年刊行)の後書きでこの本を「名著」と呼び、次のように評価している[94]

四〇年を生き抜いた本書は、現代の進化論的生態学の視野をみごとに紹介する学術書、当該分野の研究・批評を志す者の必読の入門書として、評価も確定したと言ってよいだろう。[94]

物理学・宇宙物理学からの批判

科学を語るとはどういうことか』の中で宇宙物理学者の須藤靖は、科学についての哲学的考察(科学哲学)が、実際には科学と関係が無いことを指摘している[95]

「科学哲学と科学の断絶

私は科学哲学が物理学者に対して何らかの助言をしたなどということは聞いたことがないし、おそらく科学哲学と一般の科学者はほとんど没交渉であると言って差し支えない状況なのであろう。 … 科学哲学者と科学者の価値観の溝が深いことは確実だ。

二〇世紀が生んだ最も偉大な物理学者の一人であるリチャード・ファインマンが述べたとされる有名な言葉に「科学哲学は鳥類学者がの役に立つ程度にしか科学者の役に立たない」がある。 … かつて私がこの言葉を引用した講演をした際に、「鳥類学は鳥のためにやっているわけでないし、科学哲学もまた科学のために存在するのではない」という反論をもらったことがある。確かに、科学哲学が科学のためのものである必要は無い。[95]
科学哲学が、この方法論が果たして正しいのであろうかと立ち止まって悩んでいる間に、科学は常に前に踏み出しています。それでいいではないですか。 科学哲学者が横からいろいろ言うけれども、科学者からは「耳を傾けるべき重要な指摘だろうか」と首を傾げることばかり(たぶん、科学哲学者の皆さんから袋叩きに遭うでしょうが)というのが、正直な印象です。[96]

須藤は、哲学的に論じられている「原因」という言葉を取り上げて、「原因という言葉を具体的に定義しない限りそれ以上の議論は不可能です」[97] と述べており、「哲学者が興味を持っている因果の定義物理学者とは違うことは確かでしょう」としている[98]。科学哲学者・倫理学者の伊勢田哲治は、「思った以上に物理学者と哲学者のものの見え方の違いというのは大きいのかもしれません」と述べている[99]

須藤によると、学問の扱う問題が整理され分化したことで、科学と哲学もそれぞれ異なる問題を研究するようになった[100]。これは「研究分野の細分化そのもの」であり、「立派な進歩」だと須藤は言う[100]。一方で伊勢田は、様々な要素を含んだ「大きな」問題を哲学的・統一的に扱う、かつての天文学について言及した[100]。「その後の天文学ではその〔哲学的〕問題を扱わなくなりましたし、今の物理学でもそういう問題を扱わない」と述べた伊勢田に対し、須藤は「その通りですが、それ自体に何か問題があるのでしょうか」と返した[100]

対談で須藤は「これまでけっこう長時間議論を行ってきました。おかげで、意見の違いは明らかになったとは思いますが、果たして何か決着がつくのでしょうか?」と発言し、伊勢田は「決着はつかないでしょうね」と答えている[101]

現代哲学からの批判

大学などからの研究費という限られたパイを学者たちが奪い合うという状況もあってか「役に立つ」実学、学問の金儲けへの転用を重んじる現代では「哲学はむしろ根本的な欠陥を抱えている」「非生産的で無価値な学問分野である」、などとしてしばしば厳しい批判にも晒されている[要出典]。学問分野として全面的な否定や揶揄の対象にされることが多い点も哲学ならではの特徴といえる。

ちなみにこの批判の中には哲学者とされる者によって展開されるものも含まれそのような批判が一つの哲学的立場になっている場合もある。

抽象的な概念を巡る定義や論争などは、証拠によって決着を着けたり、万人が合意するような立場に辿りつけたりする可能性が低く(あるいはそのような可能性が皆無で)、結論が出ないままに延々と議論だけが続く、(特に実証主義的な観点から)非生産的な学問であるとの見方もある。現に論理実証主義はそのような真偽の検証ができない命題や議論をナンセンスとして斥け、従来の哲学に対して否定的な立場を取った。神の存在証明を巡る中世のスコラ哲学、実存哲学などは、その典型であったといえよう(もっとも、前者は証明方法の洗練によって、論理学の発展にはかなり貢献した)。

また、大学の哲学教員など現代の職業哲学者の従事する学問としての哲学は理性と言語による思考に特化しており必ずしも詩や宗教などと密接に結びついているわけではない。これに関して理性や言語による思考には限界や欠陥があり、人間の豊かな感性、感情を見落としがちであり哲学は学問分野としてそのような本質的限界、欠陥を抱え込んだ分野であると批判されることもある[102]

また、理性や言語を重んじる価値観は近代以降の西洋の諸文化に特徴的なものであると見做して攻撃する立場もある。既存の哲学が「西洋哲学」中心であることや、習慣などに埋め込まれて存在していて言語化されたり、理性的な吟味の対象にならない思想を哲学の一種として扱わない傾向にあったりすることなどを、そのような価値観の表れと考え、問題視する立場もある。

1990年代半ばより、ポストモダンフランス現代思想に分類される一部の哲学者並びに思想家が数学や物理学などの自然科学の理論や用語を、その意味を理解しないままに模倣したり、読者を煙に巻いたりしていることへの批判が起こった。哲学者のこうした欺瞞を批判した最も著名な例としてソーカル事件がある。彼らの論文に用いた数学らしき記号の羅列は数学者でなくとも自然科学の高等教育を受けた者ならそれが出鱈目であることはすぐに見抜けるお粗末なものだったのである。

森岡正博は、日本の大学や哲学教室、倫理学教室、学会や懸賞論文は制度化されており、本来答えるべき哲学的課題に向き合えていないと批判している。学会は文献学、特定個人の思想、著名哲学者の思想に偏重しており、直面した根本問題を検討することを「次の機会」に先延ばしすることに特徴があるとしている。哲学の<純粋探求>の凄みと快楽は理解するものの、それは本当に向かい合うべき問いから巧妙に逃げているのではないか、と問題提起する[103][注 31]

過去(古代・宗教)からの批判

古代ギリシア

古代ギリシャの時代の時代から、フィロソフィアが役に立たないと思う人がいた。アリストテレスはその著『政治学』において[104] 次のような逸話を提示することで、そうではないと示した。[105]

彼(タレス)は貧乏であった。貧乏であることは哲学が役に立たないことを示すと考えられたので、彼はそのことで非難を受けた。話によれば、彼は星に関する自分の巧妙な知識によって、次にくる年にオリーヴの豊作がある、ということを冬の間に知ることができた。そこで彼は、少しは金をもっていたので、キオスとミレトスにあるすべてのオリーヴ圧搾機を使用するための、保証金を支払っておいた。競りあう人が全然いなかったために、彼はわずかの金でそれらの器械を借りたわけだ。収穫時が来て急に多くの圧搾器がそろって必要となると、彼は思いのままの高値でそれを貸し出し、多額の金をつくった。このようにして彼は、哲学者は望みとあらば容易に金持ちとなることができるが、哲学者の野心はそれ以外にある、ということを世間に示した[注 32]

聖書中

コロサイの信徒への手紙の中でパウロは以下のように哲学を「むなしいだましごと」と称している箇所がある。

あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない。 — コロサイ人への手紙2章8節(口語訳)

注釈

  1. ^ : Φιλοσοφία(フィロソフィア)、羅: philosophia、仏: philosophie、独: Philosophie
  2. ^ : φιλόσοφος(フィロソフォス)
  3. ^ 紀元前古代ギリシア哲学から19世紀前半頃にかけて[要出典]
  4. ^ アイザック・ニュートンのようにかつて哲学者と呼ばれていたが、現代では哲学者とは看做されない人物がいる一方で、ゴットフリート・ライプニッツのように依然として哲学者と看做される人物もいる[要出典]
  5. ^ 19世紀以降、特に19世紀後半あたりから大学制度内で知識の位置づけの再編が行われるようになり、ドイツなどでは文化科学自然科学などの分類が採用され、それまで学問の総称であった哲学は文化科学のひとつと、かなり限定的であると同時に具体的な位置づけになった[要出典]
  6. ^ 哲学に関する学問は人文科学に含まれる。出典は広辞苑。
  7. ^ 哲学は「自然および社会,人間の思考,その知識獲得の過程にかんする一般的法則を研究する科学」である。出典は、青木書店『哲学事典』。
  8. ^ 百一新論』 - 国立国会図書館
  9. ^ 西周は主觀客觀・概念・觀念歸納演繹・命題・肯定否定理性悟性現象・藝術(リベラルアーツの訳語)・技術など、西欧語のそれぞれの単語に対応する日本語を創生した。
  10. ^ 実存哲学とも呼ばれる。
  11. ^ 例えば、「とは何か」
  12. ^ 例えば、「理性は人間にとって生与のものか」
  13. ^ 例えば、「諸存在の本質はひとつであるとする立場と、諸存在の本質は多様であるとする立場の主な争点は何か」
  14. ^ 主題の追求の方法として、「頭の中で、言葉なくして思考し、言葉を表出させる」、つまり現代で言えば言葉による象徴化の作用を伴う明晰化や、ソクラテス的な問答法、対話、弁証法、観想等がある。
  15. ^ 今日では神の存在の合理的な説明の試みも迷信的に映るのが大部分であるが、数学理論や観測技術の発展など時代の制約を考慮する必要がある。また、根源的・本質的な部分においてこの問いは解明されたとすることはできないだろう。
  16. ^ そもそも教義を持たない宗教[要出典]もあるので、全ての宗教がドグマを絶対視するわけではない。
  17. ^ 仏教ではその成立期においては(原始仏教)、外の超越者を持たなかったため「神」へのタブーそのものが無く、内観など別の形で哲学的思考が発達したとされる。一方、仏陀は神々なる存在を徐々に観念に置き換えようとする試みをしていた、という心理学者の意見[要出典]もある。また日本の仏教では、例えば親鸞が、理屈抜きに阿弥陀如来の救いを信じるよう説いていた。
  18. ^ もっとも、哲学にも師の考え・言葉をそのまま数百年間継承した歴史もあることや、神学の中で様々な論争があったり、新たな宗派・教派が生まれ続けていたりすることもあり、単純化して比較することは困難である。
  19. ^ 不思議なことに、脳の特定の箇所を刺激すると、「白い光に包まれたような感じがした」、「キリストの姿を見た」等と被験者が告げる現象が、脳科学者[誰?]から多数報告されている。たいていそれらは、いわゆる宗教的な高揚感を伴っていた。脳科学者の中には必ずしも「神」を否定しない人、肯定する人もおり、彼らは宗教者むけに「神が己の恩寵を感知する器官を人に授けた」のかもしれない、といった解釈を伝える。
  20. ^ 著作をものさず、主に討論に時間を費やしたソクラテスの思想は彼の死後弟子達の著作によって残り、またプラトン・アリストテレスの影響力は中世ヨーロッパに至るまで、分野によっては近代まで、多大なものがあった。
  21. ^ プラトンは数学・幾何を重要視し、フランシス・ベーコンは科学的な発見・発明を重んじた。
  22. ^ デカルトは、懐疑主義のどのような途方もない想定をもってきても、「わたしは考える、故にわたしは存在する」という彼にとっての真理は覆せず、よって彼はこれを哲学の第一原理とした。
  23. ^ 例えば太陽の周りを惑星が円軌道を描いて回転しているというアリスタルコスの仮説は、後世のコペルニクスによって(おそらくそうと意識してではないだろうが)復活させられた。後のケプラーが、軌道が太陽を中心としてではなく焦点とした楕円状であることを見いだし、次いでニュートンが、軌道が厳密には楕円でさえないことを発見した。仮説は、どんなに突飛に見えようと、自然を新たな見方でとらえることを可能にし、ある程度まで科学の進歩に寄与することが'ありうる'。
  24. ^ もっとも、物理学の哲学の一分野としての時空論においては、哲学者と物理学者のより密接なコラボレーションが実現している。
  25. ^ ただし近年では数学基礎論コンピュータサイエンスとの学際化が進展しており、哲学の一分野とは言いにくい状態になりつつある。
  26. ^ アリストテレスは論理学において長い間至高の地位を占め続けた。彼のもっとも重要な業績は三段論法の説である。古代ギリシャ人は演繹を重要視する半面、帰納を軽視した。帰納法の発展は近代においても真に遅々たるものであった。
  27. ^ 日本哲学会における女性会員の比率は1割に満たない。男女共同参画ワーキンググループ (2006年3月4日). “日本の文系学会における女性役員等比率”. 日本哲学会. 2008年8月6日閲覧。
  28. ^ 川村院長が言うには、ほとんど全ての生物が持っているPEA(リン酸エタノールアミン)は「喜びなどの感情」に関係する物質であり、これが主に存在する場所は脳神経細胞の軸索細胞膜で、その他には肝臓動脈心筋[65]。脳と血中物質の関係は非常に密接であり、PTSD患者の場合も「PTSDの原因となるトラウマを経験してから10年以上が経っていたにもかかわらず、免疫力が通常の4分の1にまで低下していた」と院長は言う[66]
  29. ^ フランセーンはストックホルム大学で哲学を専攻し、1987年に「Ph.D.(哲学)」を取得[67]。ルレオ工科大学でのフランセーンのページによると、「(哲学における)自分の博士論文 “my PhD thesis (in philosophy)”」は世界各国の大学図書館で閲覧できる[70]
  30. ^ 原文は"Es gibt allerdings Unaussprechliches. Dies zeigt sich, es ist das Mystische"[81].
  31. ^ また、森岡正博は「現代において哲学するとはどのようなことなのか」において、次のようなことも述べている。 「もし、現代社会とそこに生きる人間の姿を問うことをその中心に据える哲学があるとすれば、それは文献学・解釈学を中心に据える哲学ではなく、自分自身がこの社会を生きるその実践のプロセスのただ中において思索を深めていくという形の実践学を中心に据える哲学になるはずだ」(p.25)「実践学としての哲学においては、テキスト読解のかわりに、実人生と実社会の読解が入り口となる」「重視されるのは、テキスト解釈ではなく、『フィールドワーク』である。」「『私がよりよく生き、よりよく死ぬ』ために哲学をしている」「それをめざすためにはいくらテキストを読んでも解釈していてもだめなんだということが分かった」「そこから足を洗い、そのかわりに、自分の人生そのものをフィールドとして、自己とは何か、現代社会とは何か、他者とは何かを自分の頭とことばで気の済むまで探究しているのである」「われわれが知らない過去の無数の哲学者たちは、なんのことはない、こういう営みを日々続けていたのだろうから、私もまたそれをするだけのことなのである。」(p.27)「私がいう実践学というのは『実践』についての哲学的議論をするということではない。」「そうではなくて、この私やあなたが、実際に、この世界のなかで実践していくということだ」(p.27)
  32. ^ 哲学者タレスが貧乏であったために、フィロソフィアと貧困を勝手に結び付け、哲学は役に立たないとの印象を誤って持つ者が現れた。だからタレスは自分の知識を応用してたくさんお金を儲けて見せることで、フィロソフィアは全てに関するものを(実用的な知識まで含めて)含んでいて、哲学者はそれを活かすことができるのであって、自分の利便や金儲けなどが一番重要だと感じている、その感情、考え方が実はおかしいことを哲学者は知っており、その重要なこと、別の意味で本当に役に立つこと、を探求しなければならないから探求しているのだ、ということを示したのである。それは、例えば、古代ギリシャにおいては倫理的な探求だったのだ。

出典

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