古代ギリシア医学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/09 05:25 UTC 版)
ディオスコリデス
紀元1世紀のギリシア人医師・薬理学者・植物学者・ローマの軍医であったペダニウス・ディオスコリデスは、通称『薬物誌』(デ・マテリア・メディカ、De Materia Medica)として知られる薬効物質の百科事典を著した。この著作は、医学理論や病因の説明には踏みこまず、約600種の植物の用途と作用を記述し、経験的観察にもとづいて約1,000種の単純薬を扱った。 ほかの古典古代の著作とは異なり、ディオスコリデスの写本が流布されなくなることはなかった。これは19世紀に至るまでの西洋薬局方の基礎となり、記述された医薬品の効能を如実に証明している。加えて、ヨーロッパのハーブ治療に与えた影響は、『ヒポクラテス集成』のそれを凌ぐものであった[56]。
ヘロディコス
ヘロディコス(古代ギリシア語: Ἡρóδιĸος)は紀元前5世紀のギリシアの医師で、スポーツ医学の父とみなされている。はじめて病気の治療や健康維持のために運動療法を用いたのは彼の功績とされ、彼はヒポクラテスの師の一人であったと考えられている。彼はまた、よい食事と有益なハーブやオイルを使ったマッサージを推奨し、彼の理論はスポーツ医学の基礎とみなされている。彼はマッサージの行われるべきしかたに厳密であった。彼は、さすりかたは最初はゆっくりと優しく、それから速くより強い圧力をかけ、その後にさらに優しくさすることを勧めた[57]。
後世への影響
ギリシア文化との長い接触と、最終的なギリシア征服を通じて、ローマ人はヒポクラテスの医学を好意的に捉えるようになった[58]。この受容によって、ギリシア医学の理論はローマ帝国全体、ひいては西洋の大部分に広まった。ヒポクラテスの伝統を継承し発展させた、もっとも影響力のあるローマ人の学者がガレノス(207年頃没)である。
しかしながら、ヒポクラテスやガレノスの著作の研究は、西ローマ帝国の崩壊後、西方ラテン語圏では中世初期にほとんど消えてしまった。もっとも東ローマ帝国(ビザンツ帝国)では、ギリシア医学のヒポクラテス゠ガレノス的伝統が研究され、実践されつづけていた。
紀元750年以降、アラブ・ペルシア・アンダルシアの学者たちが、とくにガレノスとディオスコリデスの著作を翻訳した。その後、ヒポクラテス゠ガレノスの医学の伝統は同化され、やがて拡大したが、そのさいもっとも影響力のあったイスラムの医師・学者がアヴィセンナであった。11世紀後半から、ヒポクラテス゠ガレノスの伝統は、主にアラビア語訳から、ときにはギリシア語原典からの、古典文献の一連の翻訳によって西方ラテン語圏に戻ってきた。ルネサンス期には、新たに入手可能となったビザンツの写本から、ガレノスとヒポクラテスのギリシア語からの直接翻訳がさらになされた。
ガレノスの影響は非常に大きく、13世紀に西欧人が解剖を始めたあとも学者たちはしばしば、ガレノスの正確さに疑いを投げかけるような知見をもガレノスの理論モデルに同化させるほどであった。しかしながら、16–17世紀には科学的な実験方法がますます重視されるようになり、古典的な医学理論は乗り越えられるようになった。にもかかわらず、ヒポクラテス゠ガレノス的な瀉血法は、経験的に効果がなく危険であるにもかかわらず、19世紀まで行われていた。
関連項目
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