内村鑑三
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関連項目
人物
- 内村美代子 - 内村祐之の妻。『余は如何にしてキリスト信徒となりしか』の翻訳(角川文庫)や、鑑三選集の編纂、『晩年の父内村鑑三』(教文館)の著作を行った。
- 内村祐之 - 内村鑑三の長男。精神科医、東京帝国大学医学部教授。第3代日本プロ野球コミッショナー。
- 小原信
- 亀井俊介
- 新渡戸稲造及び内村鑑三の門下生
- 正宗白鳥
- 山本一太 - 政治家、元参議院議員。遠い親戚にあたる[29]。
- 三浦政治 - 主に北海道で活動した教育者。明治40年頃から鑑三より教えを受けたという[30]。
その他
- 良心的兵役拒否
- 石の教会・内村鑑三記念堂
- 普連土女学校 - 内村と新渡戸稲造の提言により設立された。
- 基督教独立学園高等学校 - 門下生の鈴木弼美らによって創設。
- 上毛かるた - 「こ」の札に「心の燈台 内村鑑三」として採録されている。
注釈
- ^ 「自己を鑑みる」という用法は、『何に』鑑みるのかが欠落しているが、鑑三の父の勘違いによるものであろう。[要出典]
- ^ 後に「なぜ帝大に入らなかったのか」という質問に対して、内村は「金がなかったから」と答えたという[4]。
- ^ 北越学館で、1年間の契約と共に、内村は伝道活動に携わらないことが約定書で決められていた。北越学館のキリスト教のみを教え、日本のことを教えない点と、外国伝道会社の援助を得ることによって自主独立が損なわれている点について、信仰上の束縛を内村は嫌ったと思われる[11]。
- ^ 「吾人は信ず、日清戦争は吾人にとりては実に義戦なりと」[13]
- ^ 「矢内原にとって、キリスト教的観点に立てば唯物史観は偽キリストであり、矢内原がマルクス主義と対決してキリスト教弁護論を体系的に展開したのは、偽キリストからキリストを峻別するとともに、その挑戦に応じて現世同化したキリスト教を改革純化するためであった」[16]
- ^ メソジスト教会で洗礼を受けたが、1891年の不敬事件で除籍された。しかし、1900年以来、内村は日本メソジスト教会の教会員に復籍していた。[要出典]
- ^ 第2版の冒頭に、親友の勧誘に従って改題した旨が書かれている。第二版に附する自序
余は久しく本書の改題に躊躇せり、然れども二三親友の勸誘に從ひ、竟に先哲アーノルド、ギヨー氏の著書に做ひ、其名を籍りて此書に附するに至れり、勿論彼の優此の劣は余の言を待ずして明かなり。 — 内村鑑三、『地人論』訂正版、1897年
出典
- ^ “内村鑑三”. 近代日本人の肖像. 国立国会図書館. 2020年11月5日閲覧。
- ^ 『朝日年鑑 昭和6年』朝日新聞社、1930年、738頁。
- ^ 関根(1967)、6頁
- ^ 関根(1967)、17頁。
- ^ 内村鑑三著作集21 岩波書店
- ^ 『北海道帝国大学一覧 昭和8年』北海道帝国大学、1933年10月、p.379
- ^ 彦根正三編『〔改正官員録 明治15年9月〕』博公書院、304丁
- ^ 関根(1967)、25頁
- ^ “内村鑑三の離婚”. ケベル先生のブログ. 2013年3月21日閲覧。[出典無効]
- ^ a b c 北越学館事件の成瀬仁蔵と内村鑑三―「成瀬意見書」の検討を通して片桐芳雄 日本女子大学教育学科の会 人間研究 第 53 号 2017
- ^ 鈴木(1984)、43頁。
- ^ 『第一高等学校一覧 自明治23年至明治24年』第一高等学校、1891年、66頁。
- ^ 内村(1977)、308-311頁、(初出:内村鑑三「日清戦争の義」『国民之友』、民友社、1894年9月、 オリジナルの2016年9月13日時点におけるアーカイブ。)
- ^ 「幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三等 非戦論者=「萬朝報」を去る」明治36年10月12日萬朝報(新聞集成明治編年史編纂会編『新聞集成明治編年史 第12卷』林泉社、1936年、pp.117-118)
- ^ 鈴木範久『聖書の日本語』岩波書店、2006年2月、117-118頁。ISBN 4000236644。
- ^ 岡崎滋樹「矢内原忠雄研究の系譜 戦後日本における言説」『社会システム研究』第24号、立命館大学社会システム研究所、2012年3月、223-262頁。
- ^ キリスト教界の巨星、死去『東京朝日新聞』昭和5年3月29日夕刊(『昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年』本編p19 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 臨終の様子は祐之の「父の臨終の記」に克明に記録されている。内村(2006)
- ^ 全国から教友集まり葬儀『東京朝日新聞』昭和5年3月31日(『昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年』本編p19)
- ^ 『近代日本とキリスト教の光源を見つめて 内村鑑三の生涯』小原信、PHP研究所、1992、第4章父と母
- ^ a b 『晚年の父内村鑑三』内村美代子、教文館, 1985、p218
- ^ a b 『近代日本とキリスト教の光源を見つめて 内村鑑三の生涯』小原信、PHP研究所、1992、第5章幼年時代・弟妹
- ^ 井上琢智「内村順也」『関西学院史紀要7』2001年3月
- ^ a b c d 内村鑑三歴史が眠る多磨霊園
- ^ 『晚年の父内村鑑三』内村美代子、教文館, 1985、p134
- ^ 内村鑑三と3人の娘たち矢田部千佳子、立教大学 『DEREK』 第 40 号(2020 年)
- ^ 『晚年の父内村鑑三』内村美代子、教文館, 1985、p205
- ^ 鈴木(1995)、196-197頁
- ^ 山本一太 (2014年6月10日). “偉大なる上州人、内村鑑三のDNA:その1”. 2014年8月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年6月15日閲覧。
- ^ 松本成美 編『迫害に抗して』三浦政治顕彰碑建立期成会、1978年、55頁。
内村鑑三と同じ種類の言葉
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