兒玉光雄 被爆証言

兒玉光雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/01 00:00 UTC 版)

被爆証言

被爆当日の状況

兒玉は、疎開していた旧戸坂村から汽車で広島駅へ行き、広島一中に通学していた。1945年8月6日も戸坂村在住の同級生とともに朝7時半ごろに登校した。

2年生以上は学徒動員のため、近くの軍需工場へ働きに出ていた。登校したのは兒玉ら1年生307人のみだった。その日は防火帯を作る建物疎開作業に当たることになっており、1組、3組、5組の奇数クラスが屋外で作業をしていた。残りの偶数クラスは教室で自習をして作業を待機するように命じられた[20]。兒玉は待機組であった。

教員がいない教室は雑談する生徒で賑やかであった。しばらくするとB-29が飛来する音がした。当時、降伏を促すビラなどが上空から撒かれていたため、ビラを拾うため兒玉は同級生とともに外へ出ようと、窓際の自席から反対側の廊下へ向かおうとした。その途中で、学校への持ち込みが禁止されている『少年倶楽部』という雑誌を見ていたグループが目に入り[21]、足を止めた。このグループに割り込もうとしたその時、「黄金の火柱」[22]が見え、気を失った。この一瞬が生死を分けた。

被爆直後の状況

307人の同級生のうち288人が被爆直後に死亡。屋外で作業していた3つのクラスのおよそ150人は、全員が死亡した。

どれくらいの時間が経っていたのかわからないが、激しい咳と嘔吐に襲われ意識を取り戻した。屋根や梁などの下敷きになっていたが、木材を割りながら何とか外に這い出ることができた。晴天だった空は夜のように暗く、瓦礫の下から「助けてくれ」という声が上がっていた。数人を助け出したものの、火災が発生し炎と煙でその場にいることは困難だった。自力で脱出した同級生の中には、兒玉と同じ窓際の席だったため、ガラスを浴びて全身裂傷を負っている者もいた。下敷きになっている同級生たちは、覚悟を決めたように「君が代」や学校の愛唱歌を歌い始めた。兒玉は「すまん。みんな…すまん」[23][注 9]と謝りながら、その場を離れた。同級生の低い歌声は、兒玉の耳に終生残り続けることになった。

その後、火災を避けながら広島市電が走る広い道路を目指した。道に横たわる死体や、やけどを負い、わが子を抱きながら息絶えようとする母親、眼球が飛び出た青年など、無数の重傷者を目にした。兒玉は塀の下敷きとなった中年女性に足を掴まれ[24]、瞬間的に振りほどいて逃げてしまった。離れていく兒玉を見つめる女性の視線は心の傷となって生涯残ることになった。

兒玉は戸坂村の疎開先に帰ろうと、放射線障害と思われる嘔吐を繰り返しながら駅を目指したが、この頃には真夏の太陽が照り付ける状態になっており、丹那駅の近くで意識を失った。気が付いた時には、見知らぬ家に寝かされていた[25]。広島一中に通う3年生の甥をもつ女性が、一中の制服を着ていた兒玉を保護したのだった。この女性の親切がなければ、道端で死んでいただろう。

徒歩と汽車で戸坂村に戻った時には深夜になっていた。戸坂駅の空は広島を焼く炎で赤く見えたという。兒玉は、涙を流しながら残してきた同級生に「すまん」と手を合わせた[26]。夜には戸坂村へと戻ったが、放射線障害に倒れた。

急性放射線障害

被爆から4日後、広島一中の様子が気になっていた兒玉は、親戚とともに広島へ向かった。しかし、広島駅に着くと気分が悪くなり、嘔吐を繰り返した。その後、頭髪が抜け、歯茎や目、鼻、耳の穴から出血、血便、血尿も出るようになった[27]。小豆大の斑点が体中に広がり、40度を超える高熱が出た。大量の放射線を浴びた後に起こる急性障害であった。

兒玉は危篤に陥り、医師から「棺桶を用意した方が良い」[28]と言われたが、母はドクダミの葉を煎じて薬をつくり、徹夜の看病を続けた。

ようやく危険な状況を脱したのは9月中旬であった[29]。しかしその後も頭髪は伸びず、胃腸の不調に悩まされることになった。秋ごろに、小学校の校舎を借りて授業が再開され、兒玉は復学したが、被爆の影響で頭髪が抜け、下痢と食欲不振に悩まされた。

広島一中に在学中、1947年(昭和22年)、アメリカが設置した原爆傷害調査委員会(ABCC)のジープで学校に来て、兒玉を連行し、様々な検査を受けさせた[30]。その後も麻酔なしで骨髄を採取され、その痛みと憤りから、ジープが迎えに来ても隠れて二度とABCCには協力しなかった[31]


注釈

  1. ^ 広島大学・原爆放射線医科学研究所の調査による推定。
  2. ^ 2016年(平成28年)、ハワイで催された北米放射線影響学会で講演
  3. ^ 2010年(平成22年)、公益財団法人・広島平和文化センターの「被爆体験証言者」となる。
  4. ^ 広島大学文書館が行うオーラル・ヒストリー事業で「日常の中の被爆」プロジェクト第1集に選ばれた。インタビューは平成19年10月14日にスタートし、計6回、月1回のペースで広島大学文書館にて行われた。インタビュアーは広島大学文書館長・小池聖一氏、大学史資料室長・小宮山道夫氏、そして谷整二氏である(肩書は当時)。内容は広島大学文書館から『原子野を生きのびて』として出版されている。
  5. ^ 2020年(令和2年)7月、広島大学医学部の学生に向けた講義を収録
  6. ^ 2010年の「ピースボート」寄港先での証言。
  7. ^ 2010年4月20日に厦門大学にて、2010年6月2日にアウシュビッツにて活動。2010年9月29日高知新聞の紙面掲載。(おりづるプロジェクト)
  8. ^ フランスの「ル・モンド」紙の取材を受ける。
  9. ^ 2020年7月26日、広島一中での慰霊祭に車いすで参加した際にも発言。
  10. ^ この放送への出演について兒玉は、「被爆体験と闘病経歴を赤裸々に語ることで、次世代伝承のお役に立てるならば」とカメラの前に立つ決意をした。この番組は、第32回「放送文化基金賞」を受賞している。
  11. ^ 兒玉の染色体は一見しておかしな形をしていた万歳をする腕の部分が極端に長いあるいは足の部分が短いものが多数含まれていた。
  12. ^ 兒玉の生い立ちや被爆体験、数々のがんとの闘病を兒玉への取材をもとに書いている。

出典

  1. ^ 異端の被爆者 p.15
  2. ^ a b c 中国新聞 2020年10月29日朝刊 紙面
  3. ^ a b ヒロシマからのメッセージ あとがき(解題)
  4. ^ 多田将. “第5章 人体への影響について考えよう”. 2022年11月29日閲覧。
  5. ^ 毎日新聞 2017年11月21日東京朝刊 紙面
  6. ^ 中国新聞 2014年5月26日朝刊 紙面
  7. ^ ヒロシマからのメッセージ p.15
  8. ^ 広島大学 講義「医学からみた戦争と平和」
  9. ^ a b 放射線影響研究所. “Update 2016年 第27巻 冬季号” (PDF). 2022年11月29日閲覧。
  10. ^ ヒロシマの記憶を継ぐ人インタビュー”. 2022年11月29日閲覧。
  11. ^ 東京新聞 2013年8月5日 1面「筆洗」
  12. ^ 中国新聞 2020年11月26日朝刊 紙面
  13. ^ きのこ雲の下で何が起きていたのか
  14. ^ ヒロシマからのメッセージ
  15. ^ a b c 異端の被爆者 p.265
  16. ^ 高校生の手による原爆の絵 広島市立基町高等学校美術部”. 2022年11月29日閲覧。
  17. ^ 2022年度広島大学原爆放射線医科学研究所資料
  18. ^ 異端の被爆者 p.59
  19. ^ 異端の被爆者 p.65
  20. ^ 異端の被爆者 p.73
  21. ^ 異端の被爆者 p.74
  22. ^ 異端の被爆者 p.75
  23. ^ 異端の被爆者 p.84
  24. ^ 異端の被爆者 p.87
  25. ^ 異端の被爆者 p.91
  26. ^ 異端の被爆者 p.94
  27. ^ 異端の被爆者 p.104
  28. ^ 異端の被爆者 p.106
  29. ^ 異端の被爆者 p.109
  30. ^ 異端の被爆者 p.119
  31. ^ 異端の被爆者 p.123
  32. ^ 異端の被爆者 p.139
  33. ^ 異端の被爆者 p.148
  34. ^ 異端の被爆者 p.159
  35. ^ 異端の被爆者 p.173
  36. ^ a b 広島平和記念資料館. “被爆者証言ビデオ”. 2022年11月29日閲覧。
  37. ^ 被爆者 命の記録
  38. ^ ヒロシマからのメッセージ p.39
  39. ^ 異端の被爆者 p.262~264
  40. ^ 異端の被爆者 p.263
  41. ^ ヒロシマからのメッセージ p.54
  42. ^ 異端の被爆者 p.14
  43. ^ “あの日、歌いながら死んでいった友へ 母校の応援歌ささげる87歳被爆者の決意 広島”. 毎日新聞. (2020年7月24日). https://mainichi.jp/articles/20200724/k00/00m/040/181000c 2022年11月29日閲覧。 
  44. ^ 異端の被爆者 p.261



児玉光雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/31 04:12 UTC 版)

児玉 光雄(こだま みつお、1947年8月13日 - )は日本のスポーツ心理学者追手門学院大学スポーツ研究センター特別顧問、前鹿屋体育大学教授。




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