児玉源太郎 旅順戦に関して

児玉源太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/28 14:00 UTC 版)

旅順戦に関して

旅順攻囲戦においては、日本軍が203高地を攻略したのは児玉が旅順に到着した4日後で、児玉の功績によってわずか4日間で攻略されたと『機密日露戦史』で紹介され、司馬遼太郎の小説作品などで世間に広まった。

しかし、複数の資料から以下のように否定的な見解を示す学者や研究者もいる。

  • 児玉らが203高地攻略を支持していたことについて、児玉自身は第三軍の正攻法による望台攻略を終始支持したとされる[注 3]。第三軍は第三次総攻撃の成功の見込みが無くなると作戦を変更し203高地攻略を決意する。これに満州軍側の方が反対し、総司令部から派遣されていた参謀副長の福島安正少将を第三軍参謀の白井二郎が説得した程だった[11]
  • 児玉が来訪時に第三軍司令部の参謀に対して激怒し参謀長・伊地知幸介らを論破したことについて、第三軍の参謀はほとんどが児玉と直接会っておらず電話連絡で済ましていた可能性がある[12]
  • 児玉が命じた攻城砲の24時間以内の陣地変更について、実際のところは予備の12センチ榴弾砲15門と9センチ臼砲12門を203高地に近い高崎山に移しただけではないのかと検証されてもいる[12]
  • 味方撃ち覚悟で撃つよう児玉が命じたことについて、児玉ではなく第三軍側の判断で味方撃ち覚悟で発砲していた可能性がある[13][12]

これらは、未だ決定的証拠とまでは至っておらず、今後の研究で解明が待たれている。なお、明治37年11月29日午後に、大山(総司令官)から児玉(総参謀長)へ宛てた訓令が、陸軍省『明治天皇御伝記史料 - 明治軍事史(下)』(原書房〈明治百年史叢書〉、1966年)に次のように収録されている[14]。「総参謀長へ/十一月廿九日午後/総司令官より/訓令」として、「本訓令は之を実施するに至らすして止む、十二月十三日総参謀長帰部の翌日総司令官に返納せらる」と注記し、「総参謀長派遣に関する訓令/一、貴官を第三軍に派遣す/二、余は第三軍の攻撃指導に関し要すれは満洲軍総司令官の名を以て第三軍に命令することを貴官に委す/三、貴官は明治三十七年十一月廿九日煙台を出発すへし/(終り)」(原文は旧字カタカナ)[14]




注釈

  1. ^ 兒玉の表記もある。「兒」は印刷字体、「児」は手書き書体である。学術誌、研究書、辞典類、文部科学省検定教科書などにおける歴史人物としての表記は「児玉源太郎」、『職員録』など存命中の刊行物における表記は正字体に統一の慣例により「兒玉源太郎」、御署名原本における大臣副書の本人署名は「児玉源太郎」である。
  2. ^ 現在の山口県周南市児玉町。
  3. ^ 正攻法の途中段階で大本営や海軍にせかされ実施した2回の総攻撃には反対で準備を完全に整えた上での東北方面攻略を指示していた。そのためには港湾部や市街への砲撃も弾薬節約の点から反対しており、当初は203高地攻略も提案していなかった事を示唆[10]

出典

  1. ^ 小川(2006)、p133。
  2. ^ a b 小川(2006)、p134。
  3. ^ 小林(2012)、p8。
  4. ^ 小川(2006)、p134-137。
  5. ^ 小林(2012)、p11。
  6. ^ 小川(2006)、p138。
  7. ^ 越澤(2011)、72-74頁。
  8. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)124頁
  9. ^ 『官報』第2934号「叙任及辞令」1893年4月14日。
  10. ^ 学研パブリッシング(2011)、p.59
  11. ^ 学研パブリッシング(2011)、p.69
  12. ^ a b c 学研パブリッシング(2011)、p.70 奈良武次少佐(当時は攻城砲兵司令部所属)の回想
  13. ^ 長南(2011a)、pp.150 f
  14. ^ a b 陸軍省 1966, pp. 1445-1449, 明治三十七年 - 自七月 至十二月 - 十二月七日 旅順総攻撃再興と二〇三高地の占領
  15. ^ 学習研究社刊:歴史群像『日露戦争~陸海軍、進撃と苦闘の五百日』記述より
  16. ^ 國立臺灣博物館
  17. ^ 長南(2011a)、p129。長南(2013)、pp68-69。小林(2012)、ppⅴ-ⅵ
  18. ^ 『太政官日誌』 明治7年 第1-63号 コマ番号240
  19. ^ 『官報』第1878号「叙任及辞令」1889年10月1日。
  20. ^ 『官報』第3401号「叙任及辞令」1894年10月27日]。
  21. ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
  22. ^ 『官報』第5337号「叙任及辞令」1901年4月22日。
  23. ^ 『官報』第6843号「叙任及辞令」1906年4月25日。
  24. ^ 『官報』第6921号「叙任及辞令」1906年7月25日。
  25. ^ 『官報』第548号「賞勲叙任」1885年5月2日。
  26. ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
  27. ^ 『官報』第3451号「叙任及辞令」1894年12月27日。
  28. ^ 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。
  29. ^ 『官報』第4949号「叙任及辞令」1899年12月28日。
  30. ^ 『官報』第5593号「叙任及辞令」1902年2月28日。
  31. ^ 『官報』第6920号・付録「叙任及辞令」1906年7月24日。
  32. ^ 『官報』第6832号「授爵・叙任及辞令」1906年4月12日。
  33. ^ a b 『官報』第2767号「叙任及辞令」1892年9月15日。
  34. ^ 『官報』第3691号「叙任及辞令」1895年10月16日。
  35. ^ 『官報』第6919号「叙任及辞令」1906年7月23日。
  36. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会編『平成新修旧華族家系大成 上巻』吉川弘文館、1996年、P596 - P597、小林(2012)、ppxxiv - xxv。





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