元朝秘史 成立年

元朝秘史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/26 02:51 UTC 版)

成立年

元朝秘史の成立年は長年にわたる論争があり、決着を見ていない。

成立年の根拠となるのは、続集最末尾の第282節にある記述、「大クリルタイの開かれた鼠の年の7月に、ケルレン川のコデエ・アラルという場所にオルド(幕営)があったときに書き終えた(大意)」である。従って、干支が(子年)である年に成立したことはほぼ疑いなく受け入れられているが、これがどの年にあたるかについてが問題となる。

古くから研究者によって提唱されてきた代表的な説は、1228年1240年1252年1264年1276年などがある。

  • 1228年説は、チンギス・カンが亡くなった翌年に後継者を選ぶために開かれたクリルタイの席で書かれたとするものである。しかし、続集が明らかにオゴデイ治世期の記述を含む以上、第282節が続集の末尾に置かれていることと矛盾するため、支持者は少ない。ただ、第282節が本来は本編第10巻の末尾または続集のチンギス・カンの死に関する記述の直後にあったものが続集のオゴデイ治世期の追補時に場所を移し変えられたと考え、1228年を大半の成立年とみなす小澤重男らの説もある。
  • 1240年はオゴデイの治世末期にあたり、12巻本を初めて外国語に翻訳した那珂通世をはじめ、最も多くの研究者に支持されている説で、モンゴル国でもこの説が有力である。ただ、この年にコデエ・アラルでクリルタイが開かれた史実は見当たらないことが、この説の重大な弱点として残される。
  • 1252年説は、元朝秘史の中に、帝位がオゴデイ家からトルイ家に移ることを暗示した箇所があることを根拠に、前年からコデエ・アラルでトルイ家のモンケを推戴するクリルタイが開かれていた1252年を成立年とした。しかし、内容をより仔細に検討すると、さらに下って1258年高麗遠征を示すと思われる記述、1260年以降のクビライ治世に改名された地名などが見られる。そこで、1264年説や1276年説が提唱されているが、これらには裏づけとなるクリルタイ開催の史実がないことが弱点となる。

この他に、子年にコデエ・アラルで開かれたクリルタイはもう一回あり、1324年泰定帝即位時のものである。これはチンギス・カン在世当時からあまりにも時代が下りすぎるためほとんど考慮されてこなかったが、1980年代になって岡田英弘がこの年を成立年として提唱した。すなわち、例えば13世紀末以降にカアン(ハーン)の外戚として繁栄したコンギラト部族のことを「代々カアン(ハーン)の家と通婚して皇后を出してきた」と言っている箇所があり、13世紀末以降の人々の考え方が混入していると判断できるという。岡田によれば、元朝秘史はチンギス・カン廟の祭祀が晋王の称号を持つ王族によって始められた1292年から後に祭祀のための縁起として口承された頌詩であり、1324年に筆写されたのだという。




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