中村玄角 中村玄角の概要

中村玄角

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/09 00:08 UTC 版)

 
中村 玄角
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天文13年(1544年)10月7日
別名 中村日向、藤原日向入道玄角
戒名 玄角院殿光往根常大居士[1]
墓所 栃木県真岡市荘厳寺[1]
官位 日向守
主君 宇都宮俊綱
氏族 中村氏 (下野国)
父母 父:中村義長 母:宇都宮成綱の娘[1]
葛西宗清の娘[1]
時長、女子(伊達右兵衛室)
テンプレートを表示

宇都宮氏の五指に入るほどの闘将と謳われた。源義経の遺児とされる中村朝定より数えて15代目の孫[2]にあたる。中先代の乱において宇都宮氏の臣になり旧領である中村城をこの玄角の代まで累代居住としていた。入道して嫡男時長が中村城主になる。

中村城の戦い

中村入道玄角石碑

天文13年(1544年)10月に結城氏の家臣で負け知らずの猛将と謂われる水谷正村(後の蟠龍斎)が攻めてきた際に嫡男の時長とともに撃退している。領民に慕われていた玄角親子は中村の領民と共にその晩、祝杯をあげていたがその領民を盾に正村の軍勢が夜襲を掛けた。玄角は嫡男時長に城に火を放ち、その隙に領民を逃し主家宇都宮を頼るよう命じた。玄角は城の南西において激闘の中、討ち死にした。時長は父、玄角の命により中村城に火を放ち無念の中、宇都宮へ返した[2]。その後、中村領は敵におちるが領民は中村玄角、時長親子を慕い「畑に地しばり 田にひる藻 久下田に蟠竜なけりゃよい[3]という草取り唄を歌い継ぎ、果敢に領民を守った玄角の討ち死にの地には碑が立ち、最後の城主時長を祀る社が領民によって建立され、現代まで伝わっている。

中村氏は宇都宮氏の家臣としては、中村城落城までの間、中村十二郷を中心に2千石以上を領したとされている[† 1]

出典・脚注

参考史料

  • 中村沿革誌(松本宗内、下野史料、1895年
  • 中村郷土誌(田代黒瀧、下野史料、1912年
  • 芳賀郡南部郷土誌(佐藤行哉、1936年
  • 宇都宮氏家臣録(徳田浩淳、宇都宮市立中央図書館所蔵)
  • 野州中村神社縁起(中村神社文書編纂委員會、中村神社顕彰會)

参考文献

  • 真岡市史案内 第4号(真岡市教育委員会、1985年)
  • 真岡市史 第6巻 通史編 原始・古代・中世(真岡市史編纂委員会、1987年)
  • 中村八幡宮と奥州伊達氏とのかかわり(中村八幡宮社務所、2002年)
  • 伊達一族とその起源〔古樹紀之房間、古代及び中世氏族の系譜関係資料〕(宝賀寿男、2002年)
  • 坂東武士の系譜・第4部 激動の時代37 中村玄角[4](産経新聞 2019年9月22日)

注釈

  1. ^ 地元遍照寺 (真岡市)の口伝では時長は奥州岩ケ淵の館に住んだとされるが新田氏族の中村日向と混同されて伝わったものと考えられる、また水谷側の資料「水谷蟠龍記」には父の治持が玄角を討取ったとあり、「寛政重修諸家譜」の治持の譜文に、猿山の合戦後、中村十二郷が結城水谷領になったとある。猿山合戦は大永6年(1526年)であるので、この年が廃城と考えられる

出典

  1. ^ a b c d 野州中村神社縁起 P28
  2. ^ a b 真岡市史案内第4号・P69「遍照寺古詩」
  3. ^ 芳全寺(水谷蟠龍斎:菩提寺)栃木県真岡市
  4. ^ 産経新聞THE SANKEI NEWS 坂東武士の系譜・中村玄角



「中村玄角」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「中村玄角」の関連用語

中村玄角のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



中村玄角のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの中村玄角 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS