中村城の戦い
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天文13年(1544年)10月に結城氏の家臣で負け知らずの猛将と謂われる水谷正村(後の蟠龍斎)が攻めてきた際に嫡男の時長とともに撃退している。領民に慕われていた玄角親子は中村の領民と共にその晩、祝杯をあげていたがその領民を盾に正村の軍勢が夜襲を掛けた。玄角は嫡男時長に城に火を放ち、その隙に領民を逃し主家宇都宮を頼るよう命じた。玄角は城の南西において激闘の中、討ち死にした。時長は父、玄角の命により中村城に火を放ち無念の中、宇都宮へ返した。その後、中村領は敵におちるが領民は中村玄角、時長親子を慕い「畑に地しばり 田にひる藻 久下田に蟠竜なけりゃよい」という草取り唄を歌い継ぎ、果敢に領民を守った玄角の討ち死にの地には碑が立ち、最後の城主時長を祀る社が領民によって建立され、現代まで伝わっている。 中村氏は宇都宮氏の家臣としては、中村城落城までの間、中村十二郷を中心に2千石以上を領したとされている。
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中村城の戦い
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天文13年(1544年)10月に結城氏の家臣で後に負け知らずの猛将と謂われる水谷正村(後の蟠龍斎)が中村城に攻めてきた際に父の玄角とともに正村の軍勢を撃退している。領民に慕われていた玄角・時長親子は中村の領民と共にその晩、祝杯をあげていたがその領民を盾に正村の軍勢が夜襲を掛けた。父玄角は時長に城に火を放ち、その隙に領民を逃し主家宇都宮を頼るよう命じ自らは城の南西において楯になり激闘の中、討ち死にした。父玄角の命により中村城に火を放ち無念の中、宇都宮へ返した。中村の領民たちは中村玄角、時長親子を慕い「畑に地しばり 田にひる藻 久下田に蟠竜なけりゃよい」という草取り唄を歌い継ぎ、果敢に領民を守った玄角の討ち死にの地には碑が立ち、最後の城主時長を祀る社が領民によって建立され、現代まで伝わっている。
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