ロシア演劇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 19:58 UTC 版)
20世紀 革命の影響-ソ連誕生から崩壊-
1917年に起こったロシア革命はロシア演劇にも大きな影響を与えた。1919年には全劇場が国有化された。(ただし国立と銘打ってあるものの実質的に経営はモスクワ市にゆだねられていた)[2]
ソヴィエト政府は1921年1月、代表的劇場にアカデミー劇場の名称を与え教育人民委員部の直接管理下に置いた。モスクワのモスクワ芸術座、大劇場(=ボリジョイ劇場)、小劇場(=マールイ劇場)、サンクトペテルブルクのマリインスキイ劇場(現キーロフ記念オペラ・バレー劇場)、アレクサンドリンスキイ劇場、コミック・オペラ劇場(現小歌劇場)がそれである。
1932年には共産党中央委員会の”文学・芸術組織の改編についての決議”で社会主義リアリズムを基準に芸術評価をすることが決議され、すべての芝居を上演前に複数の委員会から承認を得なければならなくなる。そして1934年ソ連のスターリンにより、社会主義リアリズムが唯一公認の芸術様式となる。そしてスタニスラフスキー・システムがそれを体現する訓練法として、政府公認のものとなる。1917年の十月革命は演劇の革命として、メイエルホリドはロシア・アヴァンギャルドの芸術運動の中心になったものの社会主義リアリズムに反するとして、粛清された。
またこの時期は、ソ連の民族共和国(ソ連を構成する共和国)にロシアの劇場を義務的に設置していた(ロシア語と文化の普及のため)。演劇協会もあった。
ソ連では海外公演は文化省が許可しなければ行けなかった。また1956年設立の国家音楽委員会(ゴスコンツェルト)が管理をしていて、外からの公演も見る機会は限られていた。(日本からは1928年にモスクワ、レニングラードで俳優19人演奏者8人補助人員8人、市川左團次(二代目)が団長の歌舞伎公演、1961年河竹登志夫団長によるモスクワ、レニングラードでの俳優28人演奏家22人補助22人の歌舞伎公演などがある)
スターリンの死後、1950年代後半からはスターリン体制から離れた作品が登場する。ヴィクトル・ローゾフ、アレクサンドル・ヴォローディン、アレクセイ・アルブーゾフなどの劇作家が現れた。1970年代にはアレクサンドル・ヴァムピーロフ、リュドミーラ・ペトルシェフスカヤらの戯曲が生活の赤裸々な真実を書き、またこの時代は古典に向き合い現代の諸問題の答えを探す戯曲が流行していた。
ソ連の各共和国の国家管理の演劇協会は1987年に設立されたソ連演劇人連盟に加盟をすることに。ソ連崩壊の足音が近づく中、この頃から検閲等が過去のものになっていく。また演劇祭を開こうとする潮流があった。1992年に国際演劇同盟会議になりそして第一回国際チェーホフ演劇祭がモスクワで開かれた。そして二年に一度開催されるようになる。1998年にはSCOT鈴木忠志演出 『デュオニソス』 が日本から初参加。2001年にはチェーホフ演劇祭を基盤にモスクワで第三回演劇オリンピックが開催。これらによりソ連崩壊により混沌としたロシア演劇文化が世界と統合することに。
- ^ マイヤ・コバヒゼ著『ロシアの演劇ー起源、歴史、ソ連崩壊後の展開、21世紀の新しい演劇の探求』2013年、生活ジャーナル、p.9
- ^ “世界の演劇-世界の劇場 ロシア”. 2020 8/14閲覧。
- ^ 「我々は再びまたチェーホフに、個人としての、神の創造物としての、そして何かのためにこの世で生き、何かのためにこの世から去るものとしての自分の本質について、最も重要な問題を投げかけようとしています。チェーホフはロシア文学で最も偉大なヨーロッパ人です。彼が生きて執筆していたのは、おそらく、ロシア史で最も幸せな時期です。思い出して下さい、『三人姉妹』の中の「今は拷問もなく、死刑も侵攻もない、なのに、それとともにどれだけ苦しみがあることか!」という一節を。個性が成立しなければならないのに、それが成立するのがとても難しいということによる、各個人の悲劇性を、チェーホフはきわめて鋭く感じていたのです。」 とイズヴェスチャ紙、2009年8月13日付で述べている。(『ロシアの演劇ー起源、歴史、ソ連崩壊後の展開、21世紀の新しい演劇の探求』2013年、マイヤ・コバヒゼ著、生活ジャーナル、p.107)
- ^ マイヤ・コバヒゼ著『ロシアの演劇ー起源、歴史、ソ連崩壊後の展開、21世紀の新しい演劇の探求』2013年、生活ジャーナル、p.84
- 1 ロシア演劇とは
- 2 ロシア演劇の概要
- 3 20世紀 革命の影響-ソ連誕生から崩壊-
- 4 20世紀から現代
- 5 ロシアの演劇教育
- ロシア演劇のページへのリンク