レイテ戦記 レイテ戦記の概要

レイテ戦記

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/27 09:41 UTC 版)

大岡は「結局は小説家である著者が見た大きな夢の集約である」と語っており[2]、中央公論社や筑摩書房の全集でも本作が小説に分類されており、本項では小説として扱う。

背景

大岡は1944年に召集されフィリピンミンドロ島に派遣されたが1945年1月にアメリカ軍の捕虜となり[4]、同年12月に復員する[5]。この体験を基に『俘虜記』『野火』などの小説を発表したが[6]、いずれも一兵士の視点で語られた作品に過ぎなかった。だが「損害が大きければ、それだけ遺族も多いわけで、自分の親族がどのようにして戦って死んだか知りたい人は多いわけである。それには旧職業軍人の怠慢と粉飾されすぎた物語に対する憤懣も含まれていた。」(あとがきを一部変え抜粋)[7]という考えに至り、この作品を手がけ、レイテ島で死闘した末に死亡した兵士達の鎮魂碑を打ち立てた。

各章の概要

1 第16師団 昭和19年4月5日
この4月からレイテ島に配備されたのは第16師団(兵力18000名余)。師団長は牧野四郎中将。
2 ゲリラ
フィリピンには前世紀から対スペイン、対米のゲリラがいた。昭和17年以後は対日ゲリラとなる。
3 マッカーサー
ダグラス・マッカーサーフランクリン・ルーズベルト大統領とハワイで会談。米軍のフィリピン上陸を決定。
4 海軍
フィリピン上陸米軍を迎え撃つ捷号作戦計画。台湾沖航空戦大勝利の誤報が、大本営のレイテ決戦作戦を生む。
5 陸軍
マニラの第14方面軍司令官山下奉文大将は、レイテ決戦に反対したが、結局従命。
6 上陸 10月17日-20日
10月20日、米軍がレイテ東岸のタクロバンとドラグから上陸。
7 第35軍
レイテ島の第16師団を含めて、フィリピン南半分の島々を統括する軍は第35軍。司令官は鈴木宗作中将。参謀長は友近美晴少将。
8 抵抗 10月21日-25日
上陸米軍と第16師団との戦闘。米軍はタクロバン、ドラグを占領。
9 海戦 10月24日-26日
米海軍を迎え撃つレイテ沖海戦栗田健男艦隊は反転撤退し、米軍はレイテ上陸を完了。
10 神風
菊水隊、敷島隊など、神風特攻隊による特別攻撃は、レイテ沖海戦ではじまった。
11 カリガラまで 10月26日-11月2日
米軍はレイテ北岸カリガラへ進攻。日本は26日からの第1次多号輸送で第30師団第41連隊、第102師団独歩169と171大隊、第57旅団の天兵大隊を投入。しかしカリガラを守りきれず撤退。
12 第1師団
11月1日の第2次多号輸送で、第1師団(13000名余)が、レイテ島の決戦師団として上海からオルモック湾へ上陸。
13 リモン峠 11月3日-10日
第1師団はリモン峠へ。米軍はカリガラからレイテ西岸へ出ようとし、第1師団と戦闘。1ヶ月余のリモン峠戦の始まり。
14 軍旗 11月11日-15日
リモン峠の戦いの続き。第1師団は善戦。相手の米軍第24師団長アービング少将は解任される。
15 第26師団
11月9日と11日の第3次4次多号輸送で、ルソン島から第26師団(13000名余)がレイテへ。
16 多号作戦
多号輸送作戦のこと。第1次は第30師団第41連隊と第102師団、第2次は第1師団と第26師団第12連隊を輸送。第3,4次輸送で第26師団の主力人員を輸送したが、物資と護衛艦隊が沈められた。
17 脊梁山脈
第26師団独歩第12連隊と第16師団は、脊梁山脈を守備。米軍は南から迂回し、西海岸南部のダムラアンを占領。
18 死の谷 11月16日-12月7日
リモン峠戦の続き。疲労した米軍第24師団は、新手の米第32師団と交代。日本の第1師団は防戦。
19 和号作戦
多号輸送作戦、第5次(11月23日)は途中で壊滅。6次(28日)と7次(30日)は物資輸送に成功。第16方面軍はブラウエン空港攻略の和号作戦を立案。
20 ダムラアンの戦い 11月23日-12月7日
米軍ダムラアン基地を第26師団が攻撃。12月7日に米軍がオルモックに上陸したため退却。
21 ブラウエンの戦い 12月6日-7日
第26師団と第16師団と高千穂降下隊は、ブラウエンの米軍飛行場を攻撃。
22 オルモック湾の戦い 11月27日-12月7日
米海軍は第6,7,8次多号輸送を妨害攻撃。12月7日、米軍はオルモック上陸を開始。
23 オルモックの戦い 12月8日-15日
第26師団第12連隊がオルモック湾へ急行、抗戦するが、米軍はオルモックを占領。
24 壊滅 12月13日-18日
オルモックをとられたため、島内の陸軍への補給が断たれた。
25 第68旅団 12月7日-21日
12月7日に第8次多号輸送で、台湾からの第68旅団がレイテ北端サン・イシドロに上陸。しかし主戦場から遠すぎた。
26 転進 12月12日-21日
リモン峠周辺の第1師団と第102師団と第30師団に、レイテ島西北部への転進命令。
27 敗軍 12月22日-31日
大本営はレイテ放棄を決定。組織的抵抗は終了。第14方面山下司令官からは永久抗戦の訓示。
28 地号作戦 昭和20年1月1日-20日
第1師団のうち800名弱は、小型舟でセブ島などへ撤退。しかし舟が全滅し、1月20日でこの作戦は終了。
29 カンギポット 1月21日-4月19日
日本兵はカンギポット山周辺に残された。若干名がレイテ島を脱出。第35軍司令官鈴木中将は、ミンダナオ島へ渡る途上で4月19日戦死。
30 エピローグ
戦場はルソン島などへ移った。勝利した米軍はフィリピン政府に主権を返還。終戦後にレイテ島から出てきた日本兵はいなかった。

  1. ^ 吉田凞生『鑑賞 日本現代文学 第26巻』角川書店、1990年12月25日、29頁。ISBN 4045808264 
  2. ^ a b 大岡昇平『レイテ戦記』中央公論社、1971年、694頁。 
  3. ^ 中原中也記念館『特別企画展大岡昇平と中原中也』中原中也記念館、2018年8月2日、27頁。 
  4. ^ 大岡昇平『レイテ戦記』中央公論者、1971年9月30日、693頁。 
  5. ^ 吉田凞生 編『鑑賞日本現代文学第26巻 大岡昇平 武田泰淳』角川書店、1990年12月25日、216頁。ISBN 4045808264 
  6. ^ 大岡昇平『大岡昇平対談集』講談社、1975年3月8日、65頁。 
  7. ^ 大岡昇平『大岡昇平全集 第8巻』中央公論社、1974年7月25日、735頁。 


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