ルイ・リエル ルイ・リエルの概要

ルイ・リエル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/18 14:12 UTC 版)

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ルイ・リエル

リエルの一つ目の反乱は1869年から1870年にかけて行われたもので、レッドリヴァーの反乱と呼ばれる。リエルの設立した臨時政府はついにはマニトバ州の連邦政府加入に関する条件について協議を行った。リエルはこの反乱の最中にトーマス・スコットの処刑を巡る論争の結果米国への逃亡を余儀なくされた。それにもかかわらず、リエルはしばしば「マニトバの父」と呼ばれる。米国での亡命生活中、リエルは3度にわたってカナダ下院議員に選出されているが、議席に就くことはなかった。3年間の間リエルは、自らのことを神に選ばれた指導者・預言者であるという妄想を抱くなど精神疾患の発作に苦しんだ。この期間中に抱いた確信が後に再び表層に現れ、リエルの行動に影響を与えた。リエルは亡命期間中の1881年モンタナ州で結婚をし、3人の子供を儲けた。

1884年にリエルは後のサスカチュワン州に帰還し、連邦政府に対してメティの不満を代弁する立場となった。この抵抗活動は次第に1885年のノースウェストの反乱として知られる軍事的闘争にまで発展していった。この闘争もリエルの逮捕、裁判そして反逆罪による死刑判決によって終焉をみた。カナダの仏語圏では、リエルに対し同情の眼差しが向けられ、その処刑はカナダのケベック州と英語圏の間の関係に消すことのできない影響を与えた。リエルは、カナダにおける連邦政府の父とも連邦に対する反逆者ともいわれるが、カナダの歴史の文脈上、その評価については最も複雑で難解な一人として論争の種は尽きず、また悲劇的な人物として捉えられている。

幼少年期

14歳

レッドリヴァー居留地は、名目上ハドソン湾会社によって経営されたルパートランド内の共同生活体であり、その主な居住者はカナダ先住民及びクリー族オジブウェー族、ソルトー族、フランス系、スコットランド系、イギリス系の混血からなる民族すなわちメティであった。ルイ・リエルは1844年にこの居留地(後のマニトバ州ウィニペグ近郊)でルイ・リエル・シニアとジュリー・ラジモディエールの間に11人兄弟の長男として生まれた。リエルの育った家庭は地域でもよく名の通ったフランス系カナダ人メティの家柄であった。父親は、ハドソン湾会社の長年にわたる商業活動の独占に挑み投獄されたメティのギョーム・セイヤー(Guillaume Sayer)を支援する組織の編成に携わったことによりその共同生活体内での名声を獲得した。リエルの父親の組織の行った扇動活動の結果セイヤーは釈放され、ハドソン湾会社の独占体制は終焉を迎え、リエル家の名前はレッド・リヴァー一帯で高名となった。一方、リエルの母親は、1812年にレッド・リヴァーに白人の一族としては初めて入植した、ジャン=バプティスト・ラジモディエール(Jean-Baptiste Lagimodiere)とマリー=アン・ガブリー(Marie-Anne Gaboury)の娘である。リエル一族は、熱心なカトリック信仰と強い家族の絆で知られていた。

リエルはまず、マニトバ州セント・ボニファスでローマ教会の僧侶から教育を受けた。13歳の時には、当時メティの有能な若者から聖職者を育成することに熱心であったセント・ボニファスの属司教アレクサンドル・タシェにその才覚を見出された。1858年にはタシェの斡旋によりケベック州モントリオールにあったシュルピス会のモントリオール・カレッジ(College de Montreal)の神学校(Petit Seminaire)に通うことになった。その当時の記述によれば、リエルは語学、科学及び哲学の分野で良い成績を収めたが、時折何の前触れもなくむら気を起こすことがあったといわれている。

1864年早すぎる父親の死の知らせを聞いたリエルは聖職への道に対する関心を失い1865年3月にカレッジを退校した。その後しばらくは愛徳会の修道院生として勉学を続けるが、規律違反をたびたび犯したため間もなく退学を求められた。この期間リエルはモントリオールの叔母ルーシー・リエル(Lucie Riel)の家で暮らした。父親の死により困窮したリエルは、ロドルフ・ラフラム(Rodolphe Laflamme、1827年5月15日 - 1893年12月7日、弁護士・政治家)の在モントリオール法律事務所の事務員として働いた。この頃リエルはマリー=ジュリー・グルノン(Marie-Julie Guernon)という名の若い女性と実らぬ恋に落ちた。リエルは婚約の誓約書に署名をするに至ったが、相手方の家族はメティと係わり合いになることに反対し、結局この婚約は破棄された。この婚約破棄からくる失望感もあってリエルは法律関係の職業にも喜びを見出せず、およそ1866年頃までにはケベック州を去る決心をしていた。当時リエルは、半端仕事をしながら詩人のルイ=オノレ・フレシュット(Louis-Honore Frechette)とイリノイ州シカゴに暮らした後、ミネソタ州セントポールで暫く事務員として働き、1868年7月26日にレッドリヴァーに帰郷したと考えられている。

レッドリヴァーの反乱

背景

レッドリヴァーは歴史的にはメティ及び先住民が人口の多数を占めている地域であった。しかし、帰郷したリエルは、英語を使用するプロテスタント系移住者の流入によって、宗教的、民族的及び人種的な緊張が高まっていることに気付いた。政治的な状況も見通しが悪いもので、ハドソン湾会社からカナダの連邦政府へのルパート・ランド移転についての継続的交渉も政治的な問題として取り扱われていなかった。結局この移転問題については、タシェ司教やハドソン湾会社の総督ウィリアム・マクタヴィッシュ(William Mactavish)が連邦首相のジョン・A・マクドナルドに対しそのような行為は社会的な不安を煽るだけだと警告を発したにもかかわらず、連邦政府公共事業省のウィリアム・マクドゥーガル大臣は当該地域の測量調査を命じた。ジョン・ストートン・デニス大佐の率いる測量隊が1869年8月20日に到着すると、土地制度として英国流の区画制度ではなく仏流の勅許地主制度が採用されていた故に、その多くは自分の土地に対する所有権が明示されていないメティの間に不安が広まった。

主導者リエルの台頭

8月の終わりに、リエルはこの測量調査を弾劾する演説を行い、1869年10月11日になるとリエルを含むメティの集団によってこの調査は妨害を受けた。この集団は10月16日に「メティ民族委員会("Metis National Committee")」として組織化され、リエルは事務局長に、そしてジョン・ブルースが委員長に就任した。

ハドソン湾会社の影響下にあったアシニボイン族評議会が一連の行動に対し釈明を求めると、リエルは、連邦が権力の名の下に行うあらゆる企てに対し、連邦政府がメティとその内容について交渉を行った後でなければ、徹底的に異議を唱える旨を宣言した。それにもかかわらず、二カ国語使用者でないウィリアム・マクドゥーガルが副総督に指名され、11月2日に当該居留地に着任しようと試みた。マクドゥーガルの一行は米国国境近くで引き返すことを余儀なくされ、同日、リエル率いるメティの集団は無血でギャリー砦(後のウィニペグ近郊にあったハドソン湾会社の交易所)を占拠した。

11月6日にリエルは今後の方針について議論する会議の席上にメティの代表者たちと並んで英語使用者たちを招き、12月1日にはこの会議に対し団結を維持するために必要であった権利義務一覧(list of right)を提案した。居留地の多数はメティの視点に立った提案を受諾したが、連邦に組する急進的少数派が、反対の立場を取り始めた。この少数派はジョン・クリスチャン・シュルツ、チャールズ・メイアー、デニス大佐及び余り気乗りしなかったといわれるチャールズ・ボールトン少佐らによって主導され、ゆるやかにカナダ党と呼ばれる集団を形成した。マクドゥーガル大臣はデニス大佐に武装兵からなる分遣隊の召集権限を与えることによって自らの権勢を振るおうと試みたが、英語を使用する移住者達の大多数はこの召集には応じなかった。しかし、シュルツは50人ほどの志願者を集め、自分の家や店舗の防備を固めた。リエルはシュルツの家を包囲することを命じ、多勢に無勢のシュルツ家の守備兵たちは間もなく降伏するとともにギャリー砦に収監された。

臨時政府

このような不穏な動きを聞きつけた連邦首都のオタワでは、レッドリヴァーに向けてハドソン湾会社を代表するドナルド・アレクサンダー・スミス(ストラスコナ アンド・マウント・ロイヤル卿)を含む3名の使者を派遣した。これらの使者が未だその道中にあった12月8日にメティ民族委員会は臨時政府の樹立を宣言し、12月27日にリエルはその首長に就任した。

1870年1月5日6日にリエルとオタワからの使者との間に会談が持たれたが不調に終わり、使者のスミスは懸案問題を公開討論会に付す道を選択した。スミスは1月19日20日の会合において臨時政府に賛意を示す大観衆の身の安全を保証し、スミスの説明をフランス系、イギリス系の両移住者が公平に考慮する機会を持てるようにと、リエルに対し新しい代表者会議の場を設けたるように働きかけを行った。こうして2月7日になると、オタワの使者一行に対し新たな権利義務一覧が提示され、その基本線にしたがって直接交渉のためにオタワに代表を送ることでスミスとリエルの間に合意ができた。

カナダ党の抵抗とスコットの処刑

こうして政治的な領域では目覚しい進展があったものの、カナダ党の臨時政府に反対する計画は継続していた。しかし、2月17日にボールトンやトーマス・スコットらを含む48名がギャリー砦近郊で逮捕されると、カナダ党の企ては挫折に追い込まれた。ボールトンはアンブロワーズ=ディディム・ルピーヌ(Ambroise-Dydime Lepine)の指揮する法廷で裁かれ、臨時政府に対する反逆の咎により死刑を宣告された。後にボールトンは赦免されたが、スコットはこの処置について公衆の面前における侮辱を与えただけにすぎず、メティ側の脆弱さの表れであると解釈した。スコットに対する見張り番たちは何度か彼といさかいを起こした後に、不服従の咎によりスコットに対する再審問を強く求めた。この再審問の結果、臨時政府に対する公然の反抗の罪によりスコットには死刑が宣告された。リエルは再三にわたって減刑を懇願されたが、ドナルド・スミスによればリエルは、「勧めによりボールトンの命を永らえたし、ギャディも救ったから、スコットまでは…」という旨を述べたとされている。スコットは結局3月4日に銃殺刑に処せられた。リエルが処刑を容認した動機については様々な憶測を招いているが、自身の弁明に依れば、カナダ党の構成員達にメティは本気であることを知らしめる必要があると感じたと伝えられている。

マニトバ州の創設とウルズリーの遠征

3月には連邦首都オタワに向けて臨時政府の代表団が出発した。代表団は最初のうちはスコットを処刑したことに関し法的な面で苦境に立たされたが、間もなくマクドナルド首相やジョルジュ=エティエンヌ・カルティエらとの直接会談を行うことが可能となった。双方は権利義務一覧に盛り込まれた要求事項のほとんどを正式なものとする旨の合意に達したが、これがマニトバ州の連邦入りを公式に承認する1870年5月12日のマニトバ法の基礎となった。しかし、交渉の結果代表団たちは臨時政府に対する大赦を勝ち取ることはできなかった。連邦政府の権威を居留地に及ぼしアメリカ拡張主義者達を思いとどまらせるために、ガーネット・ウルズリー大佐の指揮するカナダ軍の遠征隊がレッド・リヴァーに向けて派遣された。連邦政府側は軍の派遣を「平和の使者」と表現したが、リエルは遠征軍の一部民兵が彼に対する私的制裁を狙っていることを察知し、同軍がレッドリヴァーに接近した際に国外逃亡を図った。8月24日の遠征軍到着によりレッドリヴァーの乱は事実上その終わりを告げた。







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