ヤッシャ・ハイフェッツ 生涯

ヤッシャ・ハイフェッツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/02 14:31 UTC 版)

生涯

ハイフェッツはロシア帝国ヴィリナ (現リトアニア領ヴィリニュス) にユダヤ人として生まれた。日本ではHeifetzという綴りをドイツ語風に読んでハイフェッツと表記することが定着しているが、もとはヘブライ語のחפץ(ヘフェツ。「喜び」を意味する)に由来するイディッシュ語の苗字であり、ヘイフェツと発音される。

3歳でヴァイオリンを始め、神童と呼ばれ、5歳で地元の音楽院でレオポルト・アウアー門下のイリヤ・ダヴィドヴィチ・マルキン[1]に師事、7歳でメンデルスゾーンヴァイオリン協奏曲を演奏し、デビューを果たした。1910年には、レオポルト・アウアーに師事するため、サンクトペテルブルク音楽院に入学した。12歳でアルトゥール・ニキシュに招かれベルリンデビューを果たすと、同年ニキシュの指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と演奏している。10代のうちにヨーロッパの大部分を訪れている。

1917年にはカーネギー・ホールアメリカデビューを果たす。同年のロシア革命を避けるため、そのままアメリカ在住の道を選び、1925年にアメリカの市民権を得た。そんな時代を経て、世界中を演奏旅行しながら多数の録音も行う演奏活動を長く続けることとなる。音楽のみならず興味を持ったことに対する極度の完璧主義と、アスペルガー症候群と思われる潔癖性癖の持ち主だったが、現在ではその早期に完成された演奏スタイルと音楽に対する哲学的造詣の深さからも、高度な精神活動を営む高知能者ギフテッドであったことが指摘される。1958年から南カリフォルニア大学で後進の指導をする。1972年に演奏活動から退いた。1987年ロサンゼルスにて死去。

孫のダニー・ハイフェッツ(en:Danny Heifetz)はアメリカ出身のロックドラマーで、Mr. Bungleなどのバンドで活動している。


  1. ^ Sarasota Herald-Tribune 1953年7月19日 [1]
  2. ^ 「THE ART OF VIOLIN / アート・オブ・ヴァイオリン」(DVD)、ワーナーミュージック・ジャパン、2006年
  3. ^ Leopold Auer, Violin Playing as I Teach It (1920)
  4. ^ 『帝劇』1926年7月[2]。なお、同記事に1926年11月に再来日予定とあるが、このときは中止となった。


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