ヘンリー・モーズリー (技術者)
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船舶用機関
ウェストミンスター通りに移ったモーズリーの工房は、船舶用の蒸気機関を専門的に手掛けるようになった。モーズリーが船舶に対して使用したエンジンのタイプはサイド・レバー構造のものであり、機関のレバーがシリンダーの横に並んで搭載されていた。この形式の機関は高さを抑えることができ、蒸気船の狭い機関室に適していた。1815年にモーズリーは最初の船舶用蒸気機関を製造した。この17馬力の機関は、テムズ川の蒸気船「リッチモンド」に使用された。1823年には、イギリス海軍最初の蒸気船「ライトニング」用の機関を供給した。1829年には、400馬力の当時世界最大の船舶用機関を作り、イギリス軍艦「ディー」に搭載した。モーズリーが死んで息子の代となった後の1838年には、客船「グレート・ウェスタン」用の750馬力の蒸気機関を製造し、同船の大西洋横断を成功させた。なお、同船はイザムバード・キングダム・ブルネル(モーズリーとしばしば取引をしていたマーク・イザムバード・ブルネルの息子)が設計した船である[1]。
テムズトンネル
1825年に、マーク・イザムバード・ブルネル(以前の滑車製造機械の依頼人)が、テムズトンネルの事業に着手した。これはテムズ川を挟んだロザハイス(en:Rotherhithe)とワッピングをトンネルで結ぶ計画である。テムズトンネルは、多くの困難を超えて1842年に完成し、テムズ川を潜る史上最初のトンネルとなった。この事業は、ブルネルが設計し、モーズリー・サンズ・アンド・フィールド社が製造したシールドマシン無くしては、成り立たないものであった。このほか、排水用の蒸気ポンプも、モーズリーは提供している[3]。
晩年
晩年のモーズリーは天文学に興味を抱き、天体望遠鏡の製作を始めた。彼は、私設の天体観測所を持つためにノーウッドに家を買うつもりでいたが、この計画は実現しないうちに死を迎えた。1831年1月、モーズリーはイギリス海峡を渡る際にひいた風邪をこじらせ、4週間後の2月15日に世を去った。遺体はセント・メアリー・マグダレン・ウリッジ教会(en:St Mary Magdalen Woolwich)に葬られた。その聖母礼拝堂にあるモーズリーの墓碑は、自身が生前にデザインしたものである[1]。
モーズリーの工房は、多くの優れた技術者たちを送り出した。リチャード・ロバーツ(en)、デイヴィッド・ネイピア(en)、ジョセフ・クレメンテ(en)、ジョセフ・ホイットワース、ジェームス・ナスミス、ジョセフ・フィールド、ウィリアム・ミュア(en)らを挙げることができる。
モーズリーは、黎明期にあった機械技術分野での進歩にも貢献したが、その最大の功績は工作機械分野における先駆者としてのものであった。以後、発展した工作機械は世界中の工場で使用されるに至る。
モーズリーの起こした会社は、19世紀のイギリスで最も重要な機械製造業者であったが、1904年にその幕を閉じた。曾孫のウォルター・H・モーズリーはモーズリー・モーター・カンパニー(en)を設立した。また、その息子のレジナルド・ウォルター・モーズレー(つまり玄孫)は、スタンダード・モーター・カンパニーの創業者である。
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