ヘンリー・モーズリー (技術者)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/01 07:43 UTC 版)
ヘンリー・モーズリー | |
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生誕 | 1771年8月22日 ロンドン郊外のウリッジ |
死没 | 1831年2月14日 |
国籍 | イギリス |
親 | Sarah Tindel |
業績 | |
専門分野 | 工作機械技術 |
成果 | 様々な工作機械の開発 |
生い立ち
同名の父は、工兵隊の車輪製造工だったが戦闘で負傷し、ロンドンのウリッジ王立工廠で倉庫番をしていた。そこで若い未亡人と知り合った父が結婚してもうけた7人の子のうち5番目の子である。1780年に父は亡くなり、モーズリーは12歳で王立工廠で薬莢に火薬を詰める仕事に就いた。2年後に大工道具店に移り、15歳の時からその鍛冶場で修業を始めた。鍛冶師として、軽くて複雑なものを作る仕事の才能があるように思われた[1]。
ブラマー錠
モーズリーの腕前は評判となり、それを聞きつけた発明家ジョセフ・ブラマー(en)の依頼を受けることになった。ブラマーはその頃、新しいタンブラー錠を開発して特許を取っていたが、この複雑な鍵を安く製造できる職人が見つからず苦労していた。部下の一人から推薦されてモーズリーと連絡を取ったブラマーは、モーズリーがまだ18歳であることに驚いたが、実際に腕前を見ると雇い入れることに決めた。モーズリーはロンドンのデンマーク通りにあるブラマーの工房で働くようになった。ブラマーの工房のショーウィンドウに飾られていた鍵の見本を製作したのは、モーズリーである。この鍵には、ピッキング行為に成功した者に対して200ポンドの懸賞金がかけられていたが、成功者が現れたのは実に47年も後であった。モーズリーは特別な工具や工作機械を設計し、ブラマー錠の安価な製造を実現した。[1]
水圧機
また、ブラマーは水圧機(en)を設計していたが、ピストン周りの水密シーリングに苦労していた。一般的な手法では麻繊維を素材としたパッキンを使用するが、要求される高い水圧に耐えられなかった。このブラマー水圧機のために、モーズリーは皮革製のガスケットを使うことで、完璧なシーリングと抵抗の無い円滑な動作を両立させた。水圧機は完璧に作動するようになり、モーズリーの貢献は大きなものであったが、ブラマーからの経済的な見返りはほとんど与えられなかった[1]。
スライドレスト付き旋盤
モーズリーがブラマーの下で働きだしたころの一般的な旋盤は、足踏み動力で、切削用の刃物(バイト)は職人が手に持って切削個所に当てる仕組みだった。そのためあまり精密な作業はできず、特に鉄製品を加工する場合には問題だった。そこで、モーズリーは、バイトを固定できる工具台を取り付けるように改良した。この工具台は旋盤本体に対して正確に平行移動できるようになっていた(スライドレスト)。その結果、寸法が決められた製品をこれまでにない精度で量産できるようになり、このスライドレスト(工具送り台)付き旋盤は、機械加工に革命をもたらした[1]。
昇進と結婚
頭角を現したモーズリーは、たちまちブラマーの工房の主任となった。1791年に、モーズリーはブラマーのハウスメイドだったSarah Tindelと結婚し、4人の息子をもうけた。長男のトーマス・ヘンリーと四男のジョセフは、後に父の事業を手伝うようになった。次男のウィリアムは土木技術者となり、イギリス土木学会の創設者の一人となった。
1797年、モーズリーはブラマーから独立することを決めた。そのきっかけは、モーズリーが週にわずか30シリングの賃上げを求めたのを、ブラマーが拒んだことであった。このとき、ブラマーの下で働き出して8年が経っていた[1]。
- 1 ヘンリー・モーズリー (技術者)とは
- 2 ヘンリー・モーズリー (技術者)の概要
- 3 独立
- 4 船舶用機関
- 5 脚注
- ヘンリー・モーズリー (技術者)のページへのリンク