ヘンリー・モーゲンソウ (外交官)とは? わかりやすく解説

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ヘンリー・モーゲンソウ (外交官)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/14 09:27 UTC 版)

ヘンリー・モーゲンソウ

ヘンリー・モーゲンソウHenry Morgenthau, 1856年4月26日 - 1946年11月25日)は、アメリカ合衆国外交官実業家第一次世界大戦中にオスマン帝国のアメリカ合衆国大使を務めた。アメリカ合衆国財務長官を務めた政治家ヘンリー・モーゲンソウの父であり、ニューヨーク郡の地方検事ロバート・モーゲンソウの祖父である。

生涯

ドイツマンハイムにて、ユダヤ系ドイツ人のラザルス・モーゲンソウの息子として誕生した。1866年、モーゲンソウはアメリカ合衆国へ移住し、コロンビア大学法学大学院を卒業後、不動産取引で財産を築いた。

1912年、モーゲンソウはウッドロウ・ウィルソンの大統領選挙活動に協力し、同年に民主党の財務委員長を務めた。1913年から1916年まではオスマン帝国のアメリカ合衆国大使として活躍し、1916年に再び民主党の財務委員長を務めた。モーゲンソウは閣僚級ポストに就任することを望んでいたが、その願いは叶わなかった。

第一次世界大戦終戦後、モーゲンソウは東ヨーロッパと中東に関する顧問としてパリ講和会議に出席し、中東支援委員会、ギリシャ難民救済委員会、アメリカ赤十字社などの戦争に関する慈善団体を後援した。1919年、モーゲンソウはポーランドに派遣されたアメリカ政府の視察調査団代表を務め、いわゆる「モーゲンソウ報告書」を作成した。1933年、モーゲンソウはジュネーブ会議にアメリカ合衆国代表として出席した。

1919年、モーゲンソウはアルメニア大虐殺を描いた『Ambassador Morgenthau's Story(モーゲンソウ大使の実話)』を出版し、モーゲンソウが大使を務めた間のトルコを描いたスケッチを発表した。1918年には『Secrets of the Bosphorus(ボスポラス海峡の秘密)』、1929年には『I was sent to Athens(私はアテネに派遣された)』を出版した。

1946年ニューヨーク市で脳出血により死去。遺体はニューヨーク市のホーソーンに埋葬された。

脚注

外部リンク

外交職
先代
ウィリアム・ウッドヴィル・ロックヒル
在オスマン帝国アメリカ合衆国特命全権大使
1913年12月11日 - 1916年2月1日
次代
エイブラム・エルカス



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