ヘンリー・モーズリー (技術者)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/01 07:43 UTC 版)
独立
はじめ、モーズリーは小さな店と鍛冶場をロンドンのウェルズ通りに構えた。その後、1800年にはキャベンディッシュ・スクウェア(en)近くのマーガレット通りにある、もっと大きな建物に移った。
独立後の最初の大きな仕事は、マーク・イザムバード・ブルネルの依頼で、滑車製造用の42台の木工機械マークを製作したことである。これは海軍の帆船が装備する帆の操作用滑車[注釈 1]の生産に使うためで、機械の設計はサミュエル・ベンサム(en)の開発したものを基礎としていた。完成した木工機械は、専門工場であるポーツマス滑車工場(en)に据え付けられ、現在も稼働中の同工場には当時の機械も一部が残っている。これらの機械は、合計で年間160,000個の滑車の製造能力を誇り、従来は110人の人員を要したところ、10人での稼働を実現した。これは専用機械を使ったライン生産方式が実用化された最初の著名な例であった[1]。
ねじ切り旋盤
また、モーズリーは、産業用として最初の実用的なねじ切り旋盤を、1800年に生み出した。これは、ねじ山を一定の大きさに統一して量産できる旋盤としては初めてのものであった。このねじ切り旋盤によって、それまではアイディア止まりだった部品の互換性が、ボルトとナットの関係について実現された。これ以前は、ボルトとナットは特定の一組でしか噛み合わせることができず、例えば機械の分解をしたときには、元の組み合わせを記録しておかないと復元できなかった。モーズリーは自分の工房内で使うねじ山を規格化し、規格に合ったボルトとナットを作るためのダイスとタップを用意した。これは工房での加工技術の一大進歩であった[1]。
旋盤の設計
モーズリーは、スライドレスト付きの旋盤の最初の発明者であるとよく言われるが、これは事実ではない[2]。また、旋盤について基準ねじとスライドレスト、交換可能なギヤ機構という3要素を組み合わせた最初の人物でもないかもしれない[注釈 2]。しかし、これらの3要素を組み込んだ旋盤を世に広め、工作機械と機械技術におけるねじ山の応用に関して大きな進歩を生じさせたのはモーズリーである。
モーズリーは、10,000分の1インチ(約3マイクロメートル)単位で計測できるベンチマイクロメータの発明者でもある。このマイクロメータを「大法官」と呼び、工房内のあらゆる精密測定に使用した。
1810年までには、モーズリーの工房では80人の職工が働くようになった。工房が手狭になったので、今度はウェストミンスター通りのもっと大きな建物に引っ越した。モーズリーは、海軍省勤めの若い製図工だったジョシュア・フィールド(en)を雇い入れ、後にその才能を買って共同経営者とした。モーズリーの息子たちが経営者になった後には、会社名もモーズリー・サンズ・アンド・フィールド(Maudslay, Sons & Field)と変わった[1]。
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