ブワイフ朝 概要

ブワイフ朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/17 07:13 UTC 版)

概要

カスピ海南岸の山岳地帯ダイラム出身の豪族で、シーア派の一派十二イマーム派を奉ずるブワイフ家が興した。ブワイフ家の綴りبویه は、ペルシア語式にブーヤ(Būya)と読むという説もあり、ブーヤ朝ともいう。

歴史

ブワイフ朝を立てたのは、ブワイフという名の父を持つ三兄弟で、彼らは10世紀前半にダイラム人歩兵部隊を率いる軍人としてイラン北西部タバリスターン地方を支配するズィヤール朝に仕えて台頭し、932年にはイラン南部のファールス地方に進出してここでブワイフ朝の支配を確立した。ファールスの支配者となった長男のイマード・アッダウラは、ズィヤール朝が内紛に陥るとファールスで独立した。さらに、彼は二人の弟を東西に派遣し、次男ルクン・アッダウラは北西部のジバール地方に進出してジバール政権を立て、三男ムイッズ・アッダウラは始め東のケルマーン地方を支配した。

ケルマーンのムイッズ・アッダウラは945年に西のイラク地方に転じてバグダードに入城し、アッバース朝カリフからイラク地方の世俗支配権をもつ大アミールに任命された。これ以降、イラク政権の君主が大アミールを世襲し、カリフはイラクに実権をまったくもたないようになる。こうして、ブワイフ朝は三兄弟とその子孫からなる王族たちにより、ファールス、ジバール、イラクの3政権と、その他の群小政権からなる連合体となり、王族のうちの最年長者がブワイフ家の家長としてブワイフ朝全体を指揮する体制が築かれた。

ムイッズ・アッダウラの死後、イラク政権を継承した息子のイッズ・アッダウラはバグダードの統治力を失い、978年にファールス政権のアドゥド・アッダウラ英語版に追われた。アドゥド・アッダウラは農業生産の高いファールスと肥沃なイラクを統一し、ムイッズ・アッダウラの死以来混乱していたイラクの統治を安定させてブワイフ朝の最盛期をもたらしたが、その死後に王族間で君主の位を巡る争いが激化し、分裂傾向が深まった。

やがて、ジャズィーラ地方(現イラク北部)のハムダーン朝や、アフガニスタンガズナ朝に脅かされ、領土が侵食されていった。11世紀半ばになるとイラクなどの支配はテュルク系のマムルークたちに牛耳られ、ブワイフ朝はほとんど形骸化していた。やがて東方からガズナ朝にかわって勢力を拡大したセルジューク朝があらわれ、1055年にバグダードの支配権を握った。1062年、ファールス地方の最後のブワイフ朝政権がケルマーンで滅び、ブワイフ朝は滅亡した。

国制

ブワイフ朝は当時はイランにおいても少数派であった十二イマーム派に属し、出自としても家祖ブワイフ以前のことはほとんどわからないような微賎な家系であったので、スンナ派が多数を占めるイラン・イラクを支配するためには、カリフによる権威の承認を必要とした。そのためにブワイフ朝は自身はシーア派の信徒であるにもかかわらずスンナ派のカリフを保護し、カリフから世俗の支配を委ねられた大アミールの地位を与えられた。ルクン・アッダウラ(「王朝の柱石」)、ムイッズ・アッダウラ(「王朝の強化者」)など、ブワイフ朝の諸政権の君主が名乗った王号は、ダウラ(アラビア語で「王朝」の意)を支える者という意味を持ち、カリフから支配権の承認とともに与えられた称号である。また、ブワイフの遠祖はイスラム以前のサーサーン朝の王族に遡るという主張がなされたり、サーサーン朝の君主の称号であったシャーハンシャー(「王の中の王」)を名乗り、バハラーム5世の子孫という系図を作成し、イラン的な支配者として正統性を打ち出すこともあった。

同族的な結合による連合政権であったブワイフ朝において、王朝の中心となるのは主にファールスの政権(首都はシーラーズ)だったが、大アミールとしてカリフの保護権を握り、カリフの改廃まで自由にする権威をもったイラク政権がブワイフ朝内外に対して政治的な影響力を持ちやすかったために、ファールス政権とイラク政権は王朝全体の主導権を巡ってしばしば対立することになった。この連合政権構造において中心が複数存在するという欠陥は、ブワイフ朝の衰退における致命的な要因のひとつである。

ブワイフ朝の樹立を支えたのは、精強な歩兵であるダイラム人の軍事力であったが、後には他の王朝と同じように、マムルークを採用するようになった。しかし、これらの軍人に対する俸給を支払うための財政的な基盤は、国家国有地制度の破綻によりブワイフ朝の建国時にはほとんど失われており、ムイッズ・ウッダウラは946年にバグダードを征服した際に、特定の土地からあがる税を徴収する権利を軍人に授与するイクター制を導入した。以後、イクター制はイスラム世界の諸王朝で広く導入され、軍事・徴税制度の基本となる。しかし、ブワイフ朝の段階ではイクターの法制化に不備があり、授与されたイクターから徴収されるべき税の限度額が定められていなかった。このためイクター制の導入は結果的に、イクター保有者による過重な税の徴収と、それによる農村の荒廃を招き、ブワイフ朝の衰退を早める。


  1. ^ たとえば『イスラム事典』(平凡社、1982年)「ブワイフ朝」の項[2]や『イスラム教入門』(中村廣治郎、岩波書店、1998年)128頁[3]。これに対して「ブワイフ朝はシーア派を信奉していた」と記載するにとどめらる一般向け概説書としては、たとえば "Buyid dynasty". Encyclopedia Britannica, 21 Apr. 2021.[4] 『イスラム教の歴史』(河出書房新社、2017年)[5]
  2. ^ 近年(20世紀)の研究によれば、従来言われていた「ブワイフ朝は十二イマーム派を奨励した」という説は後世の創作・誇張が含まれると考えられるが、少なくとも好意的であった証拠はいくつか存在する[1]。なお、ブワイフ朝がスンナ派を抑圧した可能性については、少なくともイラクにおいては証拠が見つかっていない[1]。シーア派教義を強制もしていない[5]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n Nagel, Tilman (15 December 1990). "Buyids". Encyclopaedia Iranica. Columbia University. 2023年6月23日閲覧
  2. ^ 『イスラム事典』(平凡社、1982年)「ブワイフ朝」の項。執筆担当:清水宏祐。
  3. ^ a b c d 中村廣治郎『イスラム教入門』岩波書店、1998年、128頁。ISBN 4004305381 
  4. ^ Britannica, The Editors of Encyclopaedia. "Buyid dynasty". Encyclopedia Britannica, 21 Apr. 2021, https://www.britannica.com/topic/Buyid-dynasty. Accessed 22 June 2023.
  5. ^ a b c d e 平野貴大 著「第四章シーア派とイラン」、菊地達也 編『イスラム教の歴史』河出書房新社、2017年。ISBN 9784309762623 
  6. ^ a b c d e f g h i Busse, Heribert (1975). "Iran Under the Buyids". In Frye, Richard N. (ed.). The Cambridge History of Iran, Volume 4: From the Arab Invasion to the Saljuqs. Cambridge: Cambridge University Press. pp. 250–305. ISBN 0-521-20093-8. (特にpp.287-288)
  7. ^ 橋爪 烈「初期ブワイフ朝君主の主導権争いとアッバース朝カリフ : イマーラ、リヤーサ、ムルクの検討を中心に」『史学雑誌』第112巻第2号、2003年2月20日、212-235頁、doi:10.24471/shigaku.112.2_212 
  8. ^ a b c d e f g 菊地, 達也『イスラーム教「異端」と「正統」の思想史』講談社〈講談社メチエ〉、2009年8月10日、173-180頁。ISBN 978-4-06-258446-3 





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