ブワイフ朝 宗教

ブワイフ朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/17 07:13 UTC 版)

宗教

一般的に「ブワイフ朝はシーア派十二イマーム派に属していた」と言われている[1][注釈 1]。しかしブワイフ朝の支配家系がもともと信奉していたのはザイド派であった可能性が高い[6]。アドゥドッダウラのアッバース家に対する態度は十二イマーム派的というよりむしろザイド派的である[6]。そもそも同時代の史料はブワイフ朝の宗教面についてあまり記述しておらず、そのシーア派的側面が強調されるのは、むしろ後代の史料においてである[7]。また、ブワイフ家がイスラームを受容することとした時期は、彼ら自身が主張する865年よりもずっと新しく、彼らが政治的に台頭してきたころと推定される[6]

Busse (1975) によれば、ブワイフ朝は宗教的信条(何をどう信じるか)の問題、それ自体には無関心であった[6]。関心があったのは宗教の政治的側面である[6]。ブワイフ朝の軍事力はダイラムやギーラーンの出身者とトゥルク系及びクルド系軍人とからなり、前者が(ムスリムである場合は)ザイド派信奉者であったのに対して後者はスンナ派であった[6]。またファールス地方の住民はスンナ派が多かった[6]。このような状況下でブワイフ朝は各宗教・各教派間のパワーバランスの調整に腐心した[1][6]。ブワイフ朝は宰相にシーア派でもスンナ派でもないキリスト教徒を起用したり、シーラーズでゾロアスター教徒住民とムスリム住民が衝突した際にはより多くの被害を相手に与えたムスリム側を厳しく処罰したりしている[6]。軍事力の核となるトゥルク系軍人のシーア派への改宗の強制は政権崩壊につながりかねず、不可能であった[1]

アッバース朝は749年の成立以後、一時的に融和的になったことがあるにしろ、基本的にシーア派を迫害し続けた[5]。これに対してブワイフ朝はシーア派に好意的であった[1][注釈 2]。これにより十二イマーム派の人々は、それまで個人宅で隠れて行われていたにすぎなかったフサインの殉教劇ガディール・フンムでのアリーの指名を祝う祭りなどの宗教的活動を公然と実施することができるようになった[3][5]。シーア派学者の学問的活動も活発になり[5]クライニー英語版イブン・バーブーエ英語版シャイフ・トゥースィー英語版らにより十二イマーム派の基本伝承書が編集された[3][8]。伝承書の編集と同時に法学の整備も進み、シーア派法学(ジャアファリー法学派)も成立した[3][8]

菊地 (2009) は10世紀後半からバグダードのシーア派住民居住区で上述のような祭礼が行われるようになったことの重要性を指摘する[8]。当時、スンナ派住民も彼らの祭礼を模倣しつつ対抗し、ムスアブ・イブン・ズバイルの墓廟参詣やアブー・バクルの故事を祝う祭りを行っていった[8]。それまでシーア派と非シーア派の争いは、支配者、貴人、学者のものであったところ、少なくともバグダードでは、民衆レベルにまで広がっていった[8]。またそれと共に、各派が自他を分かつ教義や教えのあいまいなところを確定させていった[8]。なお、シーア派とスンナ派の対立の発生はシーア派を奉じるブワイフ朝が成立したためとする考えは誤りである[1]。対立が既に存在していたところにブワイフ朝が成立したのであって、原因はブワイフ朝ではない[1]

対外的にみると、当時ビザンツ帝国が力を盛り返しておりスグール英語版のイスラーム支配は崩壊していた[1]ジハードの熱意に燃えるガーズィーがホラーサーンからアッバース朝カリフのいるバグダードに来訪するのであるが、彼らの取り扱いには慎重さが必要であった[1]。ジハードは彼らスンナ派の闘争であり、シーア派が参加できる余地はなかった[1]。北アフリカに国家を樹立したイスマーイール派のファーティマ朝は、ビザンツ帝国のシリアやパレスチナの支配を切り崩すことができたが、仮にブワイフ朝政権がイスマーイール派イマーム(=ファーティマ朝カリフ)に忠誠を誓うとすれば領地をすべて没収されることは明らかであった[1]。ブワイフ朝が独立勢力を維持していくには、スンナ派のアッバース朝カリフとの協力が有利な選択であった[1]。ブワイフ朝は政治的・軍事的に能動的なイスマーイール派やザイド派ではなく、消極的な十二イマーム派を選択し[1]、アッバース朝カリフを傀儡化することで支配の正統性を手に入れるという現実主義路線をとった[8]


  1. ^ たとえば『イスラム事典』(平凡社、1982年)「ブワイフ朝」の項[2]や『イスラム教入門』(中村廣治郎、岩波書店、1998年)128頁[3]。これに対して「ブワイフ朝はシーア派を信奉していた」と記載するにとどめらる一般向け概説書としては、たとえば "Buyid dynasty". Encyclopedia Britannica, 21 Apr. 2021.[4] 『イスラム教の歴史』(河出書房新社、2017年)[5]
  2. ^ 近年(20世紀)の研究によれば、従来言われていた「ブワイフ朝は十二イマーム派を奨励した」という説は後世の創作・誇張が含まれると考えられるが、少なくとも好意的であった証拠はいくつか存在する[1]。なお、ブワイフ朝がスンナ派を抑圧した可能性については、少なくともイラクにおいては証拠が見つかっていない[1]。シーア派教義を強制もしていない[5]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n Nagel, Tilman (15 December 1990). "Buyids". Encyclopaedia Iranica. Columbia University. 2023年6月23日閲覧
  2. ^ 『イスラム事典』(平凡社、1982年)「ブワイフ朝」の項。執筆担当:清水宏祐。
  3. ^ a b c d 中村廣治郎『イスラム教入門』岩波書店、1998年、128頁。ISBN 4004305381 
  4. ^ Britannica, The Editors of Encyclopaedia. "Buyid dynasty". Encyclopedia Britannica, 21 Apr. 2021, https://www.britannica.com/topic/Buyid-dynasty. Accessed 22 June 2023.
  5. ^ a b c d e 平野貴大 著「第四章シーア派とイラン」、菊地達也 編『イスラム教の歴史』河出書房新社、2017年。ISBN 9784309762623 
  6. ^ a b c d e f g h i Busse, Heribert (1975). "Iran Under the Buyids". In Frye, Richard N. (ed.). The Cambridge History of Iran, Volume 4: From the Arab Invasion to the Saljuqs. Cambridge: Cambridge University Press. pp. 250–305. ISBN 0-521-20093-8. (特にpp.287-288)
  7. ^ 橋爪 烈「初期ブワイフ朝君主の主導権争いとアッバース朝カリフ : イマーラ、リヤーサ、ムルクの検討を中心に」『史学雑誌』第112巻第2号、2003年2月20日、212-235頁、doi:10.24471/shigaku.112.2_212 
  8. ^ a b c d e f g 菊地, 達也『イスラーム教「異端」と「正統」の思想史』講談社〈講談社メチエ〉、2009年8月10日、173-180頁。ISBN 978-4-06-258446-3 





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