ピアーヴェ川の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/21 22:52 UTC 版)
結果
攻勢が完全に失敗した後、戦いは程なく小康状態に入ってオーストリア軍が散発的な攻撃を繰り返すのみになっていた。
連合国はイタリアの戦勝に喜び、連合国総司令官フェルディナン・フォッシュ元帥は敗走したオーストリア軍を直ちに追撃する様に要請したが、アルマンド・ディアズ将軍はこれを拒絶した。ディアズ将軍は戦いは勝利に終わったが戦闘の殆どはイタリア軍師団が担当しており、時に攻勢を交えた戦いはイタリア軍側にも少なくない打撃を与えていた事を憂慮していた。加えて言えばオーストリア軍はピアーヴェ側の自軍陣地に戻っており、下手に攻勢を仕掛ける(渡河側に回る)のは今回の敗北を自分達が再現する事になりかねないと批判した。イタリア軍司令部は戦力の増強に努めつつ、用心深く攻撃の機会を伺う事にした。
一方、敗北したオーストリア軍はこれが第一次世界大戦で、そしてハプスブルク帝国の歴史の中で最後の攻勢となった。敗北はドイツ軍の希望としてのオーストリア軍を失わせたという事と、後のハプスブルク帝国崩壊の双方を予兆する出来事だった。4ヶ月後、ヴィットリオ・ヴェネトの戦いでイタリア陸軍はピアーヴェ川を渡河する。
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