ナチス・ドイツ 思想

ナチス・ドイツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/21 04:39 UTC 版)

思想

ナチズムにおいては「アーリア人種こそが世界を支配するに値する人種である」というアーリア至上主義が用いられ、その中でも容姿端麗で知能が高く、運動神経の優れた者が最もアーリア人種的であるとされた。この思想を肯定する右派の政治結社トゥーレ協会ゲルマン騎士団などが党黎明期より大きな権威を持っていた。 また、頭脳の優れた超人こそが大衆を支配すべきだと信じられ、超人を生み出すために数々の人体実験を行った[15][要文献特定詳細情報]

派生用語の「ネオナチ」は、ナチズムとは違い極右民族主義反共産主義などの極右思想の組織、また個人等を包括的に表す言葉として国際的に使用される。人種を問わず多岐に存在し、これら政治組織、軍事組織、テロ組織等は、アメリカ合衆国国務省連邦捜査局(FBI)、国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)、日本公安調査庁等が警告している[16][17][18][19][20][21][22][23][24]

政治

ナチス・ドイツの政治は原則的には、ナチ党のイデオロギーである指導者原理によるものであった。一人の指導者に被指導者層が従う、つまり民族の指導者であるナチ党、その指導者であるヒトラーに民族すべてが従うというこの原理は、政治分野だけでなく経済や市民生活全てに適用された。ヒトラーの地位である指導者(Führer)は法律で定義されたものではなく[25]、国家や法の上に立つものであるとされた[26]。このため民族共同体の構成員である国民は、指導者の意思に服従し、忠誠を誓うことが義務であるとされた。

この体制では明文化された法よりもヒトラーの意思に従うことこそが重要であるとされ、合法的であるとされた[27]。一方でヒトラーは下位の指導者に大幅な自由裁量権を認めており、社会ダーウィン主義に基づく権力闘争を是認・奨励していた。このためヒトラーの意思を体現すると称する各指導者同士の権力闘争が頻発し、権力的アナーキーと評される状態となった[28]

強制的同一化

ナチス時代の特色ある政策の一つは政治や社会全体を均質化しようとするGleichschaltung、「強制的同一化」(強制的同質化)と呼ばれる運動である。

国民啓蒙・宣伝省が設置された日の会見でヨーゼフ・ゲッベルスが「政府と民族全体の強制的同一化の実現」が同省の目的である[29]と述べたように、ドイツ民族にもナチズムに基づく同一化が求められた。そのためナチ党以外の政党、労働組合や私的なクラブは次々に排除され、禁止された。代わりに人々は国家や党の主導によるイベントや集会に動員・参加することが義務づけられ、他の事象に興味を持つ時間を奪われていった。

ナチ党

1933年7月6日までにナチ党以外の既存政党はすべて解散に追い込まれ、ヒトラーが「党が今や国家となったのだ」と言明する事態となった[30]。7月14日には政党新設禁止法が公布され、唯一の政党であるナチ党以外の政党の設立・存続が禁止された。12月1日には「ナチズム革命の勝利の結果、国家社会主義ドイツ労働者党がドイツ国家思想の担い手となり、党は国家と不可分に結ばれる」ことが法律で定められた(党と国家の統一を保障するための法律)。この法律では党は公法人であるとされたが、1935年4月19日の「統一法施行令」では「共同体」(Gemeinschaft)と定義し直された。しかしこれらの条文も1942年12月12日の「ナチス党の法的地位に関する指導者命令」によって削除された[31]。党と国家の役割を定義する試みはしばしば行われたが、結局のところは両者の境界は曖昧なままであった。この党の状態をマルティン・ボルマンは「ナチス党の地位は法律の規定によっては正しく把握しうるものではなかった」としている[32]

一方でナチ党の世界観において、党は国家と同様、指導者の下にあって、民族指導を実現する一つの手段・装置であるとされたが、党は国家より優位に立つ存在であった。ラインハルト・ヘーン(de)は党は国家より先に立つ第一次的存在であるとし[33]、「国家の存在理由は、官庁・官僚装置を使って、党により与えられた大きな方針を実現し、党の負担を軽減する」存在であると説明している[34]

統治機構

国内政治の機構もナチズムの影響を強く受けた。ヴァイマル共和政の時代では内閣は合議機関であったが、やがて形式だけのものとなり、権力を持つものは一部の大臣のみとなった。ドイツ帝国以来の官僚機構と並立して党の機関も権力の一部となり、時には優位に立つこともあった。党の地方区分であった大管区は公的なものとなり、大管区指導者は地方の長として大きな権限をふるった。また親衛隊の勢力拡大は大きく、国内の治安権力を掌握した最有力組織の一つとなった。またナチス時代初期の外交分野では、外務省のほか党の外交政策局、さらにリッベントロップの個人事務所(「リッベントロップ事務所」Büro Ribbentrop、1936年以降は「リッベントロップ機関」Dienststelle Ribbentrop)が並立し、それぞれ別個の外交活動を行うことさえあった。

またナチ党はヴァイマル共和政下の強い地方自治は阻害要因でしかないと考えており、ヒトラー内閣が成立すると州の自治権は次第に奪われていった。中央政府から国家代理官や国家弁務官が送り込まれ、中央政府の権限が強化される一方で、地方議会は解散に追い込まれ、州政府は形骸化した。またナチ党の地方組織大管区が実質的な地方区分となり、大管区指導者が地方の支配者となった。

対外政策

ヒトラーはドイツ民族を養うためには現状の領土では不可能であると考えており、東ヨーロッパにおける東方生存圏の獲得を主張していた。軍事力の充実もこの目的を達成するためのものであった。1938年11月にはオーストリアとチェコスロバキアに対する侵略政策を軍首脳に明かしている(ホスバッハ覚書)。この思想に基づいてポーランド、チェコスロバキア、ソ連に対する侵略政策を進めた。また、ヒムラーなどはヨーロッパ全土のゲルマン民族を、ドイツ民族の指導の下に統括する大ゲルマン帝国(Großgermanisches Reich)という構想も持っていた。

一方で東アジア外交では、中国をとるか日本をとるかという路線対立が政軍内にあり、日本接近派が主導権を握る1939年頃まで続いた。

経済政策

1941年のBuna Werkeにて、IG・ファルベンの建設中の合成石油工場。同工場はアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の一部である。

しばしばナチスは、経済分野において高い能力を示したと評されることがあるが、ナチズムがドイツの経済回復に与えた理論的影響はほとんど無かった。ヒトラーは「私たちの経済理論の基本的な特徴は私たちが理論を全然有しないことである[35]」と言っているように、『我が闘争』で展開している自らの経済観が事実上マルクス経済学に依拠していても気づかないほど経済学に疎く[36]、当初訴えていた政策は「ユダヤ人や戦争成金から資産を収奪して国民に再配分する」という稚拙なものだった。またナチ党の経済理論家であったゴットフリート・フェーダーグレゴール・シュトラッサーは早い段階で失脚しており、影響を与えることはできなかった。

1933年2月1日、ヒトラーは4年以内に「経済再建と失業問題の解決」を実現する「二つの偉大な四カ年計画ドイツ語: Vierjahresplan)によって、わが民族の経済を再組織するという二つの大事業を成功させる」と発表した(第一次四カ年計画)。一方でヒトラーは1923年インフレーションを沈静化させて名高かったヒャルマル・シャハトドイツ帝国銀行(ライヒスバンク)総裁に迎えた。後に経済大臣になったシャハトの政策は、ヒトラーの前任者であるパーペン、シュライヒャー内閣時代の計画を継承し、公共事業、価格統制でインフレの再発を防ぎ、失業者を半減させた。

一方でヒトラーはドイツ再軍備のために300億マルクの支出を要求した。シャハトは金属調査会社(Metallurgische Forschungsgesellschaft)というダミー会社を作り、この会社にライヒスバンクが保障する手形を発行させる方式で再軍備の資金を調達した[37][要ページ番号]。このメフォ手形の発行でインフレを伴わない資金調達が可能となったが、政府に見えない負債を膨大に抱えさせる結果となった。

一方で農業は原料不足が深刻化し、支払い残高を維持することが難しく、膨大な貿易赤字は避けられないため、外貨危機に悩んでいた。そこでシャハトは1934年から双務主義で均衡を図り、広域経済(ドイツ語: Großraumwirtschaft)を敷いた。しかし、シャハトは外貨割り当てを巡って農業省と対立し、軍備のあり方でゲーリングとも対立した。その後、1935年3月にヒトラーはヴェルサイユ条約の軍備制限条項を破棄し、徴兵制を施行して軍備拡張政策を実行する。

外貨割り当てではシャハトの案が採用されたが、1936年8月26日にヒトラーはゲーリングを指導者とする第二次四カ年計画を開始させ、経済省から独立した四カ年計画庁が経済面において大きな権力をふるうことになった。第二次四カ年計画により、1937年には人員需要が失業者を上回り、ほぼ完全雇用が達成された[38]。景気回復の成果はあったが、投資財産業に比べ著しく消費財産業を劣らせ、極度な外貨不足をもたらした。また、労働力不足に陥り、物価・賃金が急騰し、価格停止令など様々な対策を講じたが、どれも失敗に終わった。このためドイツ経済は過熱し、生存圏の拡大か軍備の制限かという二つの選択に迫られた。ヒトラーは前者を選び、反対したシャハトは閑職に追いやられた。同時期に再び財政収支の悪化が激化し、アルベルト・シュペーアは「第二次世界大戦に参戦しなかったとしても第三帝国は財政赤字で破綻する」と思ったという。またシャハトの失脚後にはユダヤ人・ユダヤ系とされた企業から資本・財産を奪うアーリア化の措置が進行している。

第二次世界大戦が勃発すると、軍事支出は当時のヨーロッパでは最高の割合を示すようになり、1944年にはドイツ経済のほとんどを占めるようになった。またフランスなどの占領地からの収奪、捕虜や外国人の強制労働が、ドイツ経済において大きな割合を占めるようになった。しかしこの体制は経済封鎖と占領地失陥によってほころびだし、1945年の敗戦と同時に、戦争経済は崩壊した。これらの政策はミハウ・カレツキを始めとする経済学者らによって典型的な軍事ケインズ主義と総括されている。

自動車政策

1930年代後半のアウトバーン

カーマニアでもあるヒトラーの経済政策は余り芳しくなかった自動車生産を急激に伸ばさせ、ドイツの自動車産業を経営不振から脱却させたことで知られる。1933年にヒトラーはベルリン自動車ショーでアウトバーンの建設を発表し、自動車税が撤廃された。インフラストラクチャー開発の中で道路工事が特に盛んだったことや戦争準備で軍隊および物資をすぐに運べる最新式の道路網を必要としていたこともあり、クルップダイムラー・ベンツメッサーシュミットなどの軍需企業の協力を得て、アウトバーンの建設を加速し、フォルクスワーゲン構想を推進させた(フォルクスワーゲンの車が大衆に普及したのは戦後だが、自動車生産の基盤はナチス政権時代に整った)。

環境政策

ナチス・ドイツの中央集権的な機構により、環境保護・動物保護の政策は大きく進展し、後のドイツ連邦共和国に受け継がれる保護法制が成立した。しかしこれらも軍需が優先され、実態としては不十分なものであった。

農業・食糧政策

1933年9月に食糧農業相にリヒャルト・ヴァルター・ダレが就任して以降、ドイツの農業にも統制の手が入った。9月12日にはライヒ食糧団(de:Reichsnährstand)が結成され、ナチス党の農業全国指導者でもあるダレが農業組合、生産者、加工精製業者、取引業者間の利害調整を行うことになった。9月23日にはライヒ農場世襲法が制定され、農民の所有地を『世襲農地』として認定し、譲渡・負担設定・賃貸を禁止した。またこの中で農民(Bauer)はドイツ国籍を持ち、ドイツ民族もしくは同等の血統を持つことを要求された。これはダレの提唱した『血と土』理論に基づくものであり、農民は世襲農地から離れることが出来なくなった[39]ナチス・ドイツの農業と農政ドイツ語版)。

軍事

1942年、スターリングラード付近のPanzerwaffeの戦車および装甲車の隊列
1933年4月1日、ユダヤ系店舗のボイコットを強制するSA隊員

プロパガンダ

治安政策

1933年に政権につくとともに、ヒトラーはプロイセン州内相に党の最有力幹部であるヘルマン・ゲーリングを任じた(のちプロイセン州首相)。ゲーリングは就任後ただちにプロイセン州警察に予備警察官として突撃隊と親衛隊を加えさせた。間もなく国会議事堂放火事件後の緊急大統領令により、「予防保護拘禁」と称してその場の判断で令状なしで国民を自由に逮捕する権限が与えられた。プロイセンはドイツの国土の半分以上を占める巨大州であり、広範囲の国民がゲシュタポの猛威にさらされることとなった。4月26日には政治警察ゲシュタポが設置され、逮捕された人々を強制収容所へ送るようになった。

1934年4月、ゲーリングはゲシュタポに対する指揮権を親衛隊(SS)ハインリヒ・ヒムラーに譲った。ヒムラーとラインハルト・ハイドリヒは中央集権化とあわせて各州の警察権力を親衛隊の下で一元化しようとした。ヒムラーは1936年に内相ヴィルヘルム・フリックより全ドイツ警察長官に任じられ、やがて内相をも兼ねることによってドイツ警察・治安行政の支配者となった。ドイツ警察を一般警察業務を司る秩序警察と政治警察業務を司る保安警察に分離させ、秩序警察をクルト・ダリューゲ、保安警察をハイドリヒにそれぞれ委ねた。1938年、保安警察と親衛隊諜報組織SDは統合され、国家保安本部が成立した。国家保安本部には長官ハイドリヒ以下、ハインリヒ・ミュラー(ゲシュタポ局長)、アルトゥール・ネーベクリポ局長)、オットー・オーレンドルフ(SD国内諜報局長)、ヴァルター・シェレンベルク(SD国外諜報局長)など悪名高い政治警察幹部の名がずらりと並ぶ。国家保安本部は日夜国民を監視し、親衛隊の支配が全国に浸透していった。1941年にゲーリングはハイドリヒに「ユダヤ人問題の最終的解決」権限を移譲しており、国家保安本部はホロコーストの作戦本部ともなった。1943年にヒムラーは内相に就任し、完全なドイツ警察の支配者となった。ヒトラー暗殺未遂事件の際にもヒムラーが鎮圧者となり、今まで権限が及ばなかった国防軍内部への支配権も手に入れた。

強制収容所

親衛隊はドイツ国内・併合地・占領地を問わず各地に強制収容所を設置させた。政権掌握直後の1933年にははやくもバイエルン州でダッハウ強制収容所が設置され、さらに1936年にはベルリン北部にザクセンハウゼン強制収容所、1937年にはヴァイマール郊外にブーヘンヴァルト強制収容所が設置されている。その後も続々と収容所が建てられた。

第二次世界大戦の際に占領した地域にも強制収容所が立てられ、ポーランドに建てられた収容所のなかにはホロコーストのための絶滅収容所も置かれていた。特にアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所ベウジェツ強制収容所ソビボル強制収容所トレブリンカ強制収容所などが絶滅収容所として著名である。

また戦時中のドイツ占領地域の治安維持組織としては「アインザッツグルッペン」(特別行動部隊)があった。国家保安本部長官ハイドリヒの提唱で創設され、ドイツ軍前線部隊の一つ後方にあった「政治的敵」を殺害していた部隊である。確かに一面ではパルチザンゲリラ)狩りの側面もあったが、国家保安本部への銃殺報告書に「ユダヤ人」などと人種を理由にした項目が設けられているため、一般にはゲリラ掃討部隊とは認められておらず、ホロコーストの一翼を担う部隊であったとされている。

ナチス刑法

ナチス時代の刑法は意思刑法・行為者刑法であり、ドイツ民族の中に存在する具体的秩序に反抗する意思と人格に対して、国家社会主義的(全体主義的)立場から、応報と贖罪を犯罪者に対して要求するものであった。犯罪者は、「民族の直感」から判断されるところの悪い意思を有しているという理由により、反抗的人格を形成したことに対する報復を国家から受ける。後に西ドイツ基本法において罪刑法定主義が明記された理由の一つである[40][要文献特定詳細情報]

社会政策

ナチス・ドイツの人種政策に用いられた疑似科学の人種区分を示す表

ナチス政権は人種主義を強く打ち出し、アーリア人種の優秀さを強調していた。このため人種、社会、文化的清浄を求めて社会のすべての面の政治的支配を行った。優秀なドイツ人を具現化するためとしてスポーツを推進し、1936年ベルリンオリンピックを国威高揚に利用した。また禁煙運動にも力を入れた。また芸術面では抽象美術および前衛芸術は博物館から閉め出され、「退廃芸術」として嘲られた。

迫害

ナチスはユダヤ人ジプシーのような少数民族、エホバの証人および同性愛者障害者など彼らの価値観で人種を汚す者と考えられた人々の迫害を大規模に行ったことで知られている。

ユダヤ人・ロマ迫害政策

1938年11月9日、水晶の夜で生じた被害

政権獲得間もない頃から、公職にあったユダヤ人達はその地位を追われ始めた。またナチ党の突撃隊による1935年9月15日のニュルンベルク党大会の最中、国会でニュルンベルク法(「ドイツ人の血と尊厳の保護のための法律」と「帝国市民法」)を公布した。この中でアーリア人とユダヤ人の間の結婚や性交は禁止され、ユダヤ人の公民権は事実上否定された。この法律公布後、民間レベルのユダヤ人迫害も増していった。

各地の商店に「ユダヤ人お断り」の看板が立ち、ベンチはアーリア人用とユダヤ人用に分けられた。ユダヤ人企業は経済省が制定した安価な値段でアーリア人に買収され、ユダヤ人医師はユダヤ人以外の診察を禁じられ、ユダヤ人弁護士はすべて活動禁止となった。

またニュルンベルク法では対象とされなかったが、ロマ(ジプシー)に対する迫害もはじまり、1935年にはフランクフルト市がジプシー用の収容所を設置。1936年にはドイツ内務省が「ジプシーの災禍と戦うためのガイドライン」を制定し、以降ジプシーの指紋と写真を撮ることと定めた。1937年には親衛隊も「ジプシーの脅威と戦うための全国センター」をもうけて同センターにジプシーの定義をするよう指示を出した。1935年ニュルンベルク法が制定されたことによって、ユダヤ人はドイツ国内における市民権を否定され公職から追放された。また四カ年計画全権となったゲーリングの指導の下、アーリア化と呼ばれるユダヤ人からの経済収奪が実行された。ユダヤ人、ユダヤ経営とされた企業の資産は没収され、ドイツ人達に引き渡された。

1938年7月5日にはアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトの発案で、スイスのエヴィアンで32カ国によるドイツから逃れてくるユダヤ人難民保護の件が話し合われた(エヴィアン会議)が、各国はすべてユダヤ人の自国への受け入れには後ろ向きであった。これについてアドルフ・ヒトラーは「こうした犯罪者ども(ユダヤ人)に深い悲しみを寄せる諸国はせめてその同情を実際的な援助に向けてほしい。そうした諸国にこの犯罪者どもをくれてやる。お望みとあれば豪華客船で送ってやろう。」と述べ、ユダヤ人に同情する言を述べながら引き取ろうとしない欧米各国の偽善的態度を批判した。

1938年11月9日夜から10日未明にかけてはナチス党員と突撃隊がドイツ全土のユダヤ人住宅、商店、シナゴーグなどを襲撃、放火した水晶の夜事件が起き、これを機にユダヤ人に対する組織的な迫害政策がさらに本格化していった。

障害者への迫害

1933年に成立した「断種法」の下、ナチスは精神病アルコール依存症患者を含む遺伝的な欠陥を持っていると見なされた40万人以上の個人を強制的に処分した。1940年になるとT4作戦によって何千人もの障害を持つ病弱な人々が殺害された。それは「ドイツの支配者人種ドイツ語版ドイツ語: Herrenvolk)としての清浄を維持する」とナチスの宣伝で記述された。T4作戦は表向きには1941年に中止命令が発せられたが、これらの政策は後のホロコーストに結びついた。

ホロコースト

1942年のウクライナにて、アインザッツグルッペンが照準を合わせる先で自らの体で子どもをかばうユダヤ人女性

大戦中、ユダヤ人や少数民族に対する迫害はドイツ国内および占領地域で継続した。1941年からはユダヤ人は「ダビデの星」の着用を義務づけられ、ゲットーに移住させられた。1942年1月に開催されたヴァンゼー会議では「ユダヤ人問題の最終的解決策」(ドイツ語: Endlösung der Judenfrage)が策定されたとされる。何千人もの人が毎日強制収容所に送られ、この期間中には多くのユダヤ人、ほぼ全ての同性愛者身体障害者スラブ人政治犯エホバの証人の信者を系統的に虐殺する計画が立てられ、実行された。また、戦争捕虜や占領国国民を含む1,000万人以上が強制労働に従事させられ、劣悪な環境下に置かれた人々が次々と犠牲になった。

これら大戦中に行われた虐待と大量虐殺はホロコースト(ヘブライ語ではショアー (Shoah)) と呼ばれる。ナチスは婉曲的に「最終解決策(Endlösung)」 という用語を使用した。

ナチスとキリスト教

1940年、ナチスが反政権勢力の聖職者専用棟を設立したダッハウ強制収容所における囚人棟[41][要文献特定詳細情報]

ナチ党はその綱領でキリスト教については「積極的なキリスト教」の立場を求めるとしており、自らのイデオロギーに基づいた存在であることを求めた。このためナチス政権成立後のキリスト教会の対応は、積極的に追従するものから、反発するものまで様々であった。

ナチ党の政権獲得後のドイツでカトリック教会に対するナチスの暴力的行為が問題となっていた。これを終止させるため、ローマ教皇庁1933年7月20日にドイツ政府とライヒスコンコルダート政教条約)を締結した。バチカン首席枢機卿パチェッリ枢機卿とドイツ副首相フランツ・フォン・パーペンが署名したこの条約は、教会が学校と教育について自由を保持するかわりに政治活動を断念するものだった[42][要文献特定詳細情報]

ヒトラーは条約批准直前の閣議で、このコンコルダートが党の道徳的公認になるとの発言をしていた。これに対しかつて教会法専門の研究で学位取得し、教皇ピウス10世による教会法大全の起草・編纂を務めたパチェッリは後の7月26日、27日バチカンの日刊紙「オッセルヴァトーレ・ロマーノ」での声明で、コンコルダート批准が道徳的同意というヒトラーの見解を断固否定し、教会法大全に基づく教会ヒエラルキーの完全かつ全面的承認および受容を意義とすると激しく反論した。しかしこの事が仇となり、締結後もナチス側の暴力的行為は治まるどころか増す一方で、教会や教会の学校に思想的規制および介入するなど条約を無視した行為が頻発するようになった。教会側はナチズムの有力理論家アルフレート・ローゼンベルクの理論を批判する回勅ミット・ブレネンダー・ゾルゲ)を出すなど抵抗もしたが[43]、批判的な聖職者は強制収容所に入れられることもあった。

第二次世界大戦直前にパチェッリは教皇ピウス12世として即位した。ピウス12世はナチスによるユダヤ人迫害等の戦争犯罪に対して沈黙したため、終戦後に迫害を「黙認した」として非難され続けた。しかし後の調査により、大戦中に教皇ピウス12世からアメリカ合衆国ルーズベルト大統領宛に、ナチスを非難する極秘の書簡が送られていたという事実があったことや、ドイツのイタリア占領時に多くのユダヤ人の亡命を手助けしたことが明らかになった。このため、ピウス12世はイスラエル政府から諸国民の中の正義の人に認定されている。また、教皇ヨハネ・パウロ2世は後にユダヤ人迫害時のカトリック教会の対応について謝罪の声明を述べている。一方でナチス時代に締結されたライヒスコンコルダートは、現在でもドイツとバチカン間の条約として有効性を保っている。

プロテスタント側は元来プロイセン支持の保守派が多く、大部分がナチスに忠誠を誓った。ドイツ的キリスト者(de:Deutsche Christen)などナチズムとキリスト教を合体させる組織も作られた一方でマルティン・ニーメラーディートリヒ・ボンヘッファーをはじめとする牧師等は告白教会という地下組織を作り、密かに反ナチ運動を続けた。

戦後

ニュルンベルク裁判の被告席における被告人

ポツダム会議によってドイツ本土は米英仏ソの連合国4ヶ国に分割統治され、国境を西に大きく移動された上、旧領土の三分の一を失った。多くがポーランド領となり、東プロイセンに至っては半分をソ連に併合された。チェコスロバキアユーゴスラビアルーマニアおよびハンガリーといった地域での少数民族であった約1,000万人のドイツ人は追放された。本土では1949年まで連合国による軍政が敷かれた後(連合軍軍政期)、アメリカ合衆国イギリスフランスの西側占領地域はドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)となり、東側のソ連占領地域共産主義国家のドイツ民主共和国になった。

残されたヘルマン・ゲーリングヨアヒム・フォン・リッベントロップヴィルヘルム・カイテルといったナチス首脳部の一部は、連合軍による戦争裁判・ニュルンベルク裁判ニュルンベルク継続裁判で裁かれることになった。また、独立回復後の西ドイツ政府により非ナチ化裁判が行われ、ナチス党関係者やヒトラーお抱えの映画監督と言われたレニ・リーフェンシュタールなどが裁かれた。一方、東ドイツでは西ドイツ以上に強い非ナチ化が行われる一方で、国家人民軍においては徹底されず、旧軍時代に親ナチ的態度を示していた者が将官に抜擢される例があった。

また、ナチス式敬礼などナチズムを連想させる行為は民衆扇動罪で逮捕・処罰の対象と規定された。オーストリアでも同様の法律があり、取り締まりの対象になっている。 戦後のドイツでは憲法で「戦う民主主義」を謳っており、民主主義にとっては脅威と見なされる団体・結社に対しては解散を命じることが可能となっている(実際に1952年には元国防軍少将のオットー・エルンスト・レーマーにより設立されたドイツ社会主義帝国党ドイツ共産党と共に活動禁止を言い渡されている)。

ナチス占領下にあった地域でも、ナチス高官の愛人を持っていたココ・シャネルなど、ナチス党関係者と関係のあったドイツの犯罪行為に加担した政治家・芸術家・実業家も戦後罪を問われ、裁判を受けた者、活動を自粛せざるをえなくなった者などが存在した。しかし逃亡したナチス戦犯もおり、これらはサイモン・ヴィーゼンタールなどのナチ・ハンターによって追及が行われ続けている。

すべての非ファシズムヨーロッパ諸国ではナチ党およびファシスト党の元構成員を罰する法律が確立された。また、連合軍占領地域でのナチ党員やドイツ兵の子供に対する統制されない処罰が行われた(参照:ナチの子供)。


注釈

  1. ^ 日本においても昭和7年(1932年9月29日付の『中外商業新報』で「ドイツ社民の統制経済案 ナチス案に対抗」という表記が用いられている。
  2. ^ 同盟国であったにもかかわらず日本ではナチス(ナチ)が蔑称であるという認識は薄く、来日したヒトラーユーゲントを歓迎する歌を依頼された北原白秋も「万歳ヒトラー・ユーゲント」という歌において「万歳、ナチス」の語を使用している。
  3. ^ 例:"Das nationalsozialistische Deutschland 1933–1945"[10]
  4. ^ 例:"Mathematische Berichterstattung in Hitlerdeutschland"(1997)[12]

出典

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