ディルムン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/03 22:28 UTC 版)
ディルムンの交易品
具体的にどういった品目をやり取りしていたのかについては確実性が落ちるが、メソポタミアが穀物、銀、スズ、毛織物、オリーブオイルなどを輸出し、ディルムンは銅、木材、瑠璃、金、アンチモン、インダス地方の象牙や紅玉髄、釉薬をかけたビーズ細工、亀甲、オマーン半島のマカン葦の計算盤、ペルシャ湾で採れた真珠、貝や骨の嵌め込み細工などを輸出した。銅塊やメソポタミアで産出する天然アスファルトも、綿織物や家禽(これはインダスの主産品であった一方、メソポタミアに原産種がいなかった)との取引に用いられていた可能性がある。この交易の重要性は、ディルムンで用いられていた重さや長さがインダスで用いられていたものと実質的に一致していたことにも表れている。それらは南メソポタミアのものとは一致していなかった。
ディルムンと神話
ディルムンは時として「太陽の昇る場所」「生命に満ちた場所」と叙述されている。これはディルムンが、シュメール神話の一変種では、創世神話の舞台になっていることや、洪水伝説の主人公ジウスドラ(ウトナピシュティム)が神々から永遠の命を授かったとされる場所であることによる。
ディルムンはエンキとニンフルサグの叙事詩でも、天地創造の場所として描かれている。シュメールの南風を司る女神ニンリル、シュルッパクの都市神スドゥも、ディルムンに住まいを持っている。ギルガメシュ叙事詩にも登場するディルムンは、エデンの園のモデルになった場所と推測する学者もいる。しかしながら、初期の叙事詩『エンメルカルとアラッタの領主』では、ウルクとエリドゥにおけるエンメルカルによるジッグラトの建設を中心とする主要な出来事は、ディルムンが建設される前の世界で起こったこととして描かれている。
ディルムンの墳墓群
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英名 | Dilmun Burial Mounds | ||
仏名 | Tombes de la culture Dilmun | ||
面積 |
168.45 ha (緩衝地域 383.46 ha) | ||
登録区分 | 文化遺産 | ||
登録基準 | (3), (4) | ||
登録年 | 2019年 | ||
公式サイト | 世界遺産センター(英語) | ||
地図 | |||
使用方法・表示 |
バーレーン島の西部にある6つの古墳群と15ヶ所の王墓(13ヶ所の単独墓と2ヶ所の成対墓、いずれもジッグラトのような2階建ての墓塔)からなる21ヶ所の遺跡を含むディルムンの墳墓群は紀元前2200年から前1750年頃に築かれたものであり、2019年に紀元前2千年紀頃の初期ディルムン文明の証拠としてユネスコの世界遺産に登録された[5]。
登録基準
この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。
- (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
- (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
注釈
出典
- ^ “世界大百科事典 第2版 ディルムンとは”. コトバンク. 2018年1月6日閲覧。
- ^ 後藤 2015, p. 265.
- ^ a b Crawford 1998, pp. 5.
- ^ “Qal’at al-Bahrain – Ancient Harbour and Capital of Dilmun” (英語). UNESCO World Heritage Centre. 2023年5月13日閲覧。
- ^ a b “Dilmun Burial Mounds” (英語). UNESCO World Heritage Centre. 2023年5月13日閲覧。
- ^ a b 後藤 2015, p. 139, 150.
- ^ 後藤 2015, p. 140.
- ^ 後藤 2015, p. 185.
- ^ 後藤 2015, p. 181, 183.
- ^ 後藤 2015, p. 184.
- ^ Mojtahed-Zadeh 1999.
- ^ a b Larson 1983, pp. 50–51.
- ^ 後藤 2015, p. 241.
- ^ a b 後藤 2015, p. 197.
- 1 ディルムンとは
- 2 ディルムンの概要
- 3 ディルムンの交易品
- 4 出典・脚注
- ディルムンのページへのリンク