ティムール朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/21 00:55 UTC 版)
文化
ティムール朝は元来が遊牧政権でありながら都市の優れた文化を理解していたので、首都サマルカンドを始め王族たちが駐留した各都市では盛んな通商活動に支えられて学問、芸術などが花開いた。
特に、自身が数学、医学、天文学などに通じた学者でもあったティムールの孫ウルグ・ベクがサマルカンド知事時代に行った文化事業は名高く、彼がサマルカンド郊外に建設したウルグ・ベク天文台では当時では世界最高水準の天文表が作成されていた。
また、都市には優れた宗教・教育施設が建設され、サマルカンドのグーリ・アミール廟、ビービー・ハーヌム・モスク、ウルグ・ベク・マドラサ(イスラム学院)や、現在のカザフスタン南部テュルキスタンのホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟などが名高い。
しかし、このように都市文化に親しみ、都市の建築に力を注いだティムール朝の君主たちも、一方では遊牧民の末裔であって、都市の中の窮屈な宮殿よりも都市の周辺に設けた広大な庭園の中で寛ぐことを好んだ。こうして大小様々な庭園が建設されたが、サマルカンドのそれは、この町で生まれ育ったバーブルの自伝『バーブル・ナーマ』において詳細に描かれ、その見事な様子が今日に伝えられている。
このようにティムール朝の時代に栄えた中央アジアの宮廷文化が頂点に達したのが、15世紀後半のヘラート政権のフサイン・バイカラの宮廷においてであった。
ヘラートの宮廷では、モンゴル時代のイランで中国絵画の影響を受けて発達した細密画(ミニアチュール)の技術が移植され、芸術的にさらに高い水準に達した。フサインや、その乳兄弟で寵臣として宰相を長く務めた有力アミールのアリーシール・ナヴァーイーはいずれも優れた文化人で、彼らの文芸保護によって文学が繁栄した。
当時の中央アジアでは文化語はペルシア語であったが、ナヴァーイーらは当時テュルク語にペルシア語の語彙と修辞法を加えて洗練された「チャガタイ語」を用いた文芸、詩作をも好んで行い、ティムール朝の下でチャガタイ語をアラビア語やペルシア語と比肩しうるレベルまで文学的な地位を向上させた。チャガタイ語散文文学のひとつの頂点を示すのが、先にも触れたティムール朝の王子バーブルの著書『バーブル・ナーマ』である。
![](https://weblio.hs.llnwd.net/e7/redirect?dictCode=WKPJA&url=https%3A%2F%2Fupload.wikimedia.org%2Fwikipedia%2Fcommons%2Fthumb%2F5%2F50%2FBaysunghur%2527s_Shahname_001.jpg%2F200px-Baysunghur%2527s_Shahname_001.jpg)
ティムール朝では王朝側による修史事業もまた盛んに行われた。
シャーミーとヤズディーによってティムールの伝記である二種類の『勝利の書』が著されたのを初めとして、シャー・ルフの時代にはティムール朝はチャガタイ・ウルスの後継国家としての意識が一段と顕著になった。シャー・ルフは歴史家ハーフェズ・アブルーらに『集史』をはじめとするイルハン朝時代からの歴史情報の諸資料の総括を命じ、合わせて『集史』自体もモンゴル帝国におけるバルラス部族とチンギス・ハン家の関係を強調した形に再編集させたバージョンを作成させている。
この過程でモンゴル的な祖先伝承と預言者ムハンマドとの血縁的・宗教的関係を連動させ強調する主張も盛り込まれた。この種の主張はイルハン朝時代に萌芽があったがティムール朝ではより鮮明にされるようになった。
この影響は後のオスマン朝やサファヴィー朝、シャイバーニー朝などでも受継がれていく。またこれらシャー・ルフ治世下のヘラートでの修史事業の伝統は、フサイン・バイカラの治世にナヴァーイーの保護下で世界的な通史である『清浄園』を著したミールホーンドや、その外孫でバーブルに仕えた『伝記の伴侶』の著者ホーンダミールなどを輩出している。
これらの高い文化の影響は、ティムール朝の中央アジア領をそのまま引き継いだシャイバーン朝のみならず、西のサファヴィー朝、南のムガル帝国にまで及んだ。こうしてティムール朝の滅亡後も、東方イスラム世界と呼ばれる一帯の文化圏で優れたイスラム文化が続いてゆく。また、ティムール朝時代の進んだ文学や科学が言語を同じくするアナトリアのトルコ人たちの間にもたらされたことが、当時勃興の途上にあったオスマン帝国の文化に与えた影響は大きい。
こうしたティムール帝国で形成され花開いたイスラーム文化を、特にトルコ・イスラーム文化という。
固有名詞の分類
- ティムール朝のページへのリンク