ダヤン・ハーン 生い立ち

ダヤン・ハーン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/16 13:59 UTC 版)

生い立ち

15世紀の東アジア諸国と北方諸民族。

チンギス・カンの末裔として、15世紀当時のモンゴル高原においてハーンになる資格を唯一有する家系と見なされたボルジギン氏に生まれた。しかし、バトゥ・モンケ以前の時代には、後述する政治的混乱の為にチンギス・カン一族の記録や伝承が錯綜しており、チンギスからバトゥ・モンケに至る系譜は確実ではない。ただ、傍証や後の時代の系譜書から、歴史家はバトゥ・モンケがの世祖クビライの後裔にあたると考えている[2]

ドルベン・オイラト(オイラト部族連合)の指導者エセン・タイシトクトア・ブハ・タイスン・ハーンを擁立してドチン・モンゴル(韃靼)を滅ぼし、モンゴル高原を統一した。やがてエセンとタイスン・ハーンが対立するようになると、タイスン・ハーンの弟アクバルジ・ジノンは兄を裏切ってエセンに味方し、このためにタイスン・ハーンは敗れて殺された。しかし間もなくアクバルジ・ジノンもまたエセンに殺され、遂にハーン位に即いたエセンはチンギス裔の多くを皆殺しにしてチンギス統原理は崩れた。

アクバルジ・ジノンの息子ハルグチャクも父とともに殺されたが、その妻はエセンの娘セチェク妃子であったため、両者の息子バヤン・モンケはエセンの殺戮を免れた。チンギス統原理を破ってハーン位に即いたエセンにモンゴルの諸侯は反発し、エセンは即位後1年で弑逆されてしまった。エセンの死後、モンゴル高原ではこれといった有力者を欠く混乱時代に突入し、アスト、ハラチン集団を率いるボディ・ダルマ、ボライ太師ら、オンリュート集団(チンギス・カンの後裔)を率いるボルナイドーラン・タイジモーリハイら、ドルベン・オイラトの残党を率いるエセンの息子オシュ・テムルらがしのぎを削った。

一方、成長したバヤン・モンケはオルドス地方を根拠地とするウルウト部のオロチュ少師と同盟を組み、その娘シキル太后を娶り、ボルフ・ジノンと称して勢力を拡大した。こうして、1475年ころまでにモンゴル高原の諸集団は西方から移住してきたヨンシエブ部のベグ・アルスラン、タイスン・ハーンの末弟でボルフ・ジノンの大叔父に当たるマンドゥールン、そしてボルフ・ジノンの3つの勢力に収斂されていった。この三者は当初蜜月関係にあったが、ベグ・アルスランがマンドゥールン・ハーンを推戴するとボルフ・ジノンは排斥されるようになった。

ベグ・アルスランの「族弟」で、マンドゥールン・ハーンの腹心の部下であるイスマイルはボルフ・ジノンを攻めてその財産を掠奪し、ボルフ・ジノンの妻シキル太后を奪って自らの妻としてしまった。そして1476年にボルフ・ジノンは腹心の部下モンケと共に殺され、ボルフ・ジノンとシキル太后の息子バトゥ・モンケは「義父」となったイスマイルの下で過ごすこととなった。イスマイルの下で当初はバルガチンのバハイがバト・モンケの面倒を見ていたが、ぞんざいに扱われたためにバトゥ・モンケはエキノコックスに感染してしまった。見かねたタンラカルのテムル・ハダクとサイハイ夫妻がバトゥ・モンケを引き取り、サイハイは何度もバトゥ・モンケを擦ることで病気を癒やした[3]

このようにバトゥ・モンケの幼年時代は不幸なものであったが、マンドゥールン・ハーンには男児がいなかったため、その死後にバトゥ・モンケはチンギス・カンの血を引くほとんど唯一の男子として注目されることとなる。


  1. ^ a b 和田1959,p.425。
  2. ^ 例えば、ブヤンデルゲルはウハート・ハーン(順帝トゴン・テムル)からダヤン・ハーンに至る北元時代の帝系について考察し、(1)ウハート・ハーン,(2)ビリクト・ハーン,(3)エルベク・ハーン,(4)ハルグチュク・ホンタイジ,(5)アジャイ・タイジ,(6)アクバルジ・ジノン,(7)ハルグチュク・タイジ,(8)ボルフ・ジノン,(9)ダヤン・ハーンという系図を想定している。
  3. ^ 「エキノコックスに感染していた」の原語はbetegitei boluγsan。この時、サイハイは大きな銀の盆の底に穴が空くまで擦り、バトゥ・モンケを癒やしたという(岡田2004,p.220)。
  4. ^ 森川(2008).
  5. ^ 明軍が威寧海子で闘った相手はダヤン・ハーンであると明言されているわけではないが、『明実録』に記録されるこの戦いの描写と『アルタン・トブチ』が記す即位直後のダヤン・ハーンとヒタイ(漢人)軍との戦いの描写が非常によく似ていることから、これはダヤン・ハーン軍と明軍の戦闘であると考えられている(Buyandelger2001,pp.1-5)。
  6. ^ 漢文史料に全く記載がないことからマンドゥフイ・ハトゥンの存在自体を否定する意見もあるが、井上治はこのような意見を批判し、実際にハーンの即位に大きな権限を有していたジュンゲン・ハトゥンなどの例を挙げている(井上(2002), p. 17)
  7. ^ 『明孝宗実録』弘治元年五月乙酉には「先是、北虜小王子率部落潜住大同近辺、営亘三十餘里、勢将入寇。至是、奉番書求貢、書辞悖慢、自称大元大可汗……」と記されており、明朝はあくまで「小王子(バトゥ・モンケ)」による「自称」と扱っている。
  8. ^ 比較的早い段階に編纂された『アルタン・ハーン伝』では「ダユン・ハーンdayun qaγan」とも表記されている。このため、烏蘭はまず大元(dai-ön)がdayunに変化し、その後母音調和によってdayunがdayanに変化したのだと論じている(吉田1998,pp.228)。
  9. ^ 例えば、『シラ・トージ』は『蒙古源流』が「大元ウルスdayan ulusを支配するように」と記す箇所を「全てdayan bügüdeを支配するように」と書き直している。これは、『シラ・トージ』が編纂された頃既にdayan ulusの本来の意味は忘れられていたために、dayanが「全て」を意味する単語であるということを強調するためbügüdeという単語が付け加えられたのであろう(森川(2008), p. 68-71)
  10. ^ 森川(2008), p. 68-69.
  11. ^ ダヤン・ハーンによるイスマイル討伐が成化19年(1483年)にあったということは、『明憲宗実録』成化十九年五月壬寅「虜酋亦思馬因為迤北小王子敗走。所遺幼雅、朶顔三衛携往海西易軍器、道経遼東」という記述から確かめられる。また、「ゴルラス」も「朶顔三衛」もオンリュート(チンギス・カン諸弟の後裔の総称)に属する部族であり、ダヤン・ハーンによるイスマイル討伐はオンリュート諸部族と共同で行われたもので、戦いの地もオンリュートの地に近い遼東方面ではないかと考えられている(和田1959,pp.442-444)。
  12. ^ 岡田2004,pp.226-227。
  13. ^ ダヤン・ハーンとオイラトの協力関係については『明憲宗実録』成化二十年三月己酉「瓦剌虜酋克失欲与迤北小王子連和、俟秋高馬肥、擁衆入寇、不可不備」/『明憲宗実録』成化二十年夏四月辛酉「迤北虜酋克失遣人招降諸夷及朶顔三衛都督阿児乞台等、亦遣使察歹等上書告急言、克失与小王子連和、約東行掠。其部落将大挙入寇窃見」といった史料が、イスマイルとオイラトの連合については『明憲宗実録』成化二十二年二月己卯「……但聞、虜酋亦思馬因与瓦剌連和、欲犯瓜・沙二州」/『明憲宗実録』成化二十二年秋七月壬申「虜酋瓦剌克舎並亦思馬因已死、両部人馬散処塞下。而克舎部下立其弟阿沙亦為太師、阿沙之弟曰阿力古多者、与之有隙、率衆至辺、欲往掠」といった史料がある(和田1959,pp.445-448)
  14. ^ 「先代ハーンの寡婦が幼い新ハーンを箱に載せドルベン・オイラトに出陣した」という状況は小ハトン・サムル太后とマルコルギス・ハーンのものと全く同じであること、同時代の漢文史料では小王子(ダヤン・ハーン)と瓦剌(オイラト)が友好関係にあると記されていることなどから、本来は小ハトン・サムル太后の逸話であったものを混同したものと推測されている。
  15. ^ 『蒙古源流』ではマンドゥフイ・ハトゥンは7歳のダヤン・ハーンと結婚した時の年齢が33歳であったとされるが、そのような年齢でありながらダヤン・ハーンとの間に7人の男子と1人の女子の計8人の子女を儲けたとされることでマンドゥフイ・ハトゥンの年齢にも疑問が指摘されている。 この8人の子女の内訳を見ると、1人の女性から3組あるいは4組の双子が続いて生まれると言われていることも俄かには信じられないことで何らかの操作がなされていることは間違いないと疑問視されている。このことに関して森川哲雄は、マンドゥフイ・ハトゥンの方が年齢がはるかに高いのに8人の子が生まれたという不自然性を合理化させようとしたのかもしれないとしている。さらに森川はマンドゥフイ・ハトゥンの子女8人を含めたダヤン・ハーンの諸子の誕生年には諸説あり、重要な事実が隠蔽されている可能性があることも指摘している。
  16. ^ 以上の文章は『蒙古源流』の記述に拠る(岡田2004,p.pp.234-235)。また、『アルタン・ハーン伝』はこの戦いについて、「ウイグドの悪人をダラン=テリグンという地で打ち負かし/灰のように吹き飛ばし、塵のように散らし/真に仇敵を衰えさせ/オルドス=トゥメンを降して戻り、無事に下営した」と表現している(吉田1998,p.119)。
  17. ^ 岡田2004,pp.236-237。
  18. ^ また、モンゴル年代記にはこの表現を省略した「6トゥメン国(ǰirγurγan tümen ulus)」、「6トゥメンのモンゴル(ǰirγurγan tümen Mongγol)」、「6トゥメンの大国(ǰirγurγan tümen yeke ulus)」といった言い方も見られる(森川1972,p.43)。
  19. ^ 「ダヤン・ハーンの6トゥメン」については岡田英弘「ダヤン・ハーンの6万人隊の起源」(岡田2010,pp.299-307に所収)に詳しい。但し、この論文が主張する各トゥメン(万人隊)の起源について、近年中国の学者を中心に反論が為されている。
  20. ^ 但し、内容的には『シラ・トージ』の「6トゥメン讃歌」よりもオルドスの「幸いある宴の儀式」の方が分量が豊富である(森川2007,pp.298-300)。
  21. ^ 萩原・佐藤説は漢訳版『蒙古源流』に「バトゥ・モンケの弟バヤン・モンケ」と記されるのに従ってバトゥ・モンケとバヤン・モンケ兄弟がダヤン・ハーンになったとするが、この記述はモンゴル語から漢語に翻訳する時に生じた誤訳であり、実際には「バヤン・モンケの息子バトゥ・モンケ」と記されている(岡田2010,p136-145)。
  22. ^ 例えば、中国では『蒙古族簡史(1985)』や『蒙古族通史(1991)』といった概説書にこの説が採用されている(吉田1998,pp.247-248)。
  23. ^ 『蒙古源流』は『シラ・トージ』と紀年が同じなため、省略する。また、『蒙古源流』と『シラ・トージの紀年は元来十二支だけで記されていたものに、後から十干を加えたものであるため、それぞれ年が12年ずつずれている。
  24. ^ 森川1988,p.2
  25. ^ 本節の記述は基本的に『蒙古源流』に拠る(岡田2004,pp.225-226,239,248)。但し、ダヤン・ハーンの諸子に対する分封は史料によって記述が大きく異なり、特にアル・ボラト/ウバサンジャ/ゲレ・ボラトの3人は情報が錯綜している。森川哲雄は『蒙古源流』だけでなく他のモンゴル年代記や漢文史料との比較検討によってアル・ボラト=ヨンシエブ/ウバサンジャ=タタル/ゲレ・ボラト=ウルウトと結論づけた。この見解は現在広く受け容れられている(森川(1976))。
  26. ^ 吉田1998,pp.232-233。






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