ダマスコのイオアン
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ダマスコの聖イオアンに題材をとった音楽作品
ダマスコの聖イオアンに題材をとった音楽作品として、セルゲイ・タネーエフによる混声四部合唱と大オーケストラのための『ダマスコの聖イオアン』、ヴァシリー・カリンニコフによるオーケストラと合唱とソリストのためのカンタータ『ダマスコの聖イオアン』などがある。
学問研究の視点からのダマスコのヨアンネス
その生涯
ダマスコのヨアンネスの生涯についてはきわめてわずかのことしか知られていない。エルサレムの総主教ヨアンネスの作とされる『伝記』が存在するが、伝説的な要素が多い[1]。
650年頃、ダマスコで裕福なアラブ人キリスト教徒の家庭に生まれる。祖父サルグーンも父マンスールもビザンティン皇帝の官吏、636年以降はカリフの官吏を務めた。ヨアンネスも父の協力者としてカリフに仕えたが、700年頃、第5代カリフ、アブド・アルマリクの反キリスト教政策が原因で引退し、エルサレムに近いマル・サバ修道院[注釈 6]に入る。エルサレム総主教ヨアンネスによって司祭に叙階された。修道院で教え、エルサレムの聖堂で説教し、著述を行った。100歳ぐらいの老齢となった750年頃死去した。『伝記』に記される、イタリアから連行された捕虜の一人であった修道士コスマス(675頃-752年頃、後にマイウマの司教となる)を父親がカリフから譲り受け養子としたうえでヨアンネスの家庭教師としたという話、およびカリフから嫌疑を受け、右腕を切り落とされたが、神の母の聖画像の前で徹夜で祈っていると聖母が現れ、その右腕を元どおりに回復させたという話はいずれも伝説である[1]。
生前から実績に対する評価は高かった。787年の第2ニカイア公会議で尊者と宣言され、ラテン教会でも高く評価され1890年に教会博士と宣言されている[1]。
主な著作
- 『ヤコブ派駁論』
- 『キリストにおける二つの意思について』
- 『ネストリオス派駁論』
- 『マニ教徒駁論』
- 『イスラーム教徒駁論』
- 『教理の基礎』
- 『聖画像破壊論者駁論』
- 『断食について』
- 『八つの悪しき霊について』
- 『信仰告白』
- 『パウロ書簡註解』
- 『聖なる処女マリアの就眠』
- 『聖なる処女マリアの誕生』
- 『主の変容』
- 『聖なる安息日』
- 『枯れた無花果』
- 『ヨアンネス・クリュソストモスに関する講話』
- 『聖バルバラに関する講話』
- 『サクラ・パラレラ』 - 道徳・修徳生活に関する聖書と教父文書からの抜粋集。
- 『知識の泉』 - 『中世思想原点集成3 後期ギリシャ教父・ビザンティン思想』平凡社に第三部「正統信仰の解明」の第1章から第81章までが収録されている。翻訳 小高 毅。[2]。
脚注
注釈
- ^ ハナアン…カナンの日本正教会における転写・表記[1]。
- ^ 新約聖書に記された、イイスス・ハリストス(イエス・キリストのギリシャ語読み)の十字架刑に際して、ハリストスの右側に架けられた盗賊が天国に入れられた出来事を指す。
- ^ 処女のまま、神であり人であるイイスス・ハリストスを産んだ、生神女マリヤ(聖母マリア)を指す。
- ^ 天使で構成される軍のこと。
- ^ アミン…「アーメン」(ギリシア語: Αμήν)の現代ギリシャ語読み。詳細はアーメンを参照。
- ^ マル・サバは483年に造られた世界で最も古い修道院の一つで、カッパドキア出身の修道士、聖サバスによって創立されたと伝えられている。エルサレムの南東、約10キロメートルに位置するケデロンの谷にそびえ立っている。
出典
- 1 ダマスコのイオアンとは
- 2 ダマスコのイオアンの概要
- 3 ダマスコの聖イオアンに題材をとった音楽作品
- 4 参考文献
固有名詞の分類
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