ストローブ=ユイレ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/28 11:35 UTC 版)
経歴
ドイツとの国境沿いにありフランス領とドイツ領を行き来をした経緯を持つメス(Metz) で生まれ育ち、幼年時にドイツ語教育を強制された経験を持つストローブは高等映画学院(IDHEC)進学のためにパリに上京し、当時ソルボンヌ大学生だったユイレと知り合う。同時にシネマテーク・フランセーズで知り合った、ゴダールやロメール、リヴェットら後のヌーヴェルヴァーグの面々と親交を深める。1956年、ストローブはリヴェットの35ミリ撮影の短編『王手飛車取り』の助監督につく[1]。
1958年、ストローブはアルジェリア戦争への荷担を拒否するために徴兵を忌避し、ユイレ共々ドイツに亡命する。軍事法廷で有罪となり、この後11年間フランスに帰国することができなかった。
ドイツで長年構想を温めていた『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』(DVDリリース題『アンナ・マクダレーナ・バッハの年代記』)制作のための資金を貯めながら短編・中編映画を作成し、二本目の『妥協せざる人々』(1965年)でニュー・ジャーマン・シネマの旗手ともて囃される。1968年に念願の『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』を制作・発表して世界各地で絶賛され、その名を世界的なものとした。
ジャン=マリー・ストローブはミュンヘンの小劇場「アクション・テアーター(Aktion-Theater)」と繋がりがあり[2]、同劇場出身のライナー・ヴェルナー・ファスビンダーが率いたグループ「アンチテアター」のメンバーらと協働して舞台演出に携わったことがある[3][2]。この公演の映像は映画『花婿、女優、そしてヒモ』(1968年)に活用されている[4][3][2]。また、ストローブはファスビンダー監督の最初の長編映画『愛は死より冷酷』(1969年)にも野外撮影の協力者として参加している[3]。
ドイツ在住の後、イタリアに移住。
- ^ このことの歴史的意義については、AJYMフィルムの項参照。
- ^ a b c ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー「ハナ・シグラ──スターにあらず、われわれ皆と同じ人間(興味をそそるある女性についてのまとまりのない考え)」 (pp. 141-142, 144)、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー『映画は頭を解放する』勁草書房(明石政紀 訳)、1998年、pp. 122-145。
- ^ a b c “愛は死より冷酷”. 武蔵野美術大学 美術館・図書館 イメージライブラリー所蔵 映像作品データベース. 武蔵野美術大学. 2023年2月20日閲覧。
- ^ 持田 睦 (2020年6月4日). “フェルディナント・ブルックナーの戯曲『青春の病』(ストローブによる縮小編集版)の日本語訳(旧ブログより)”. ユイレとストローブの映画を見る前に/見た後に. 2020年1月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月21日閲覧。
固有名詞の分類
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