ジョージ・トロフィモフ ジョージ・トロフィモフの概要

ジョージ・トロフィモフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/12 07:25 UTC 版)

ジョージ・トロフィモフ
George Trofimoff
生誕 (1927-03-09) 1927年3月9日
ドイツ国 ベルリン
死没 2014年9月19日(2014-09-19)(87歳)
所属組織 アメリカ陸軍
軍歴 1948年 - 1956年(陸軍)
1953年 - 1987年(陸軍予備役)
最終階級 大佐(Colonel)
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経歴

1927年、ヴァイマル共和国時代のベルリンにて生を受ける[1]。父方の祖父ウラジーミル・イワノヴィチ・トロフィモフ准将(Vladimir Ivanovich Trofimoff)はロシア帝国陸軍の参謀将校だったが、1919年にチェーカーによって逮捕・銃殺された。父ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・トロフィモフ(Vladimir Vladimirovich Trofimoff)はロシア帝国陸軍幼年学校英語版(帝国軍高級将校の子息向け近衛士官学校)出身者であり、ロシア革命には白軍少佐として従軍した。母エカテリーナ・カルタリ(Ekaterina Kartali)は、1926年にトロフィモフ少佐と結婚するまでコンサートピアニストとして活動していた[2]

1928年に妻が死去した後、トロフィモフ家は絶望的な貧困に苦しむこととなる。その為、トロフィモフ少佐は友人の白系ロシア人夫婦ウラジーミル・シャラホフ(Vladimir Sharavov)とアントニーナ・シャラホフ(Antonina Sharavov)にしばらく息子を預けることにした。シャラホフ家にはアントニーナが前夫との間にもうけた息子イーゴリ・ウラジミロヴィチ・ズーゼミール英語版があった。トロフィモフは後年になっても、ズーゼミールのことを「我が兄弟」(my brother)と呼んでいた[3]

1943年、トロフィモフ少佐は再婚し、これに合わせて息子を呼び戻した。ところが連合国軍によるベルリン空襲がまもなく激化した為、一家は再び離れ離れとなってしまった。その後、ジョージ・トロフィモフはアメリカ陸軍将校として占領地ドイツを再訪する1949年まで家族と再会することができなかった[4]

1944年秋、ジョージ・トロフィモフはドイツ陸軍からの招集を受ける。しかし彼はこれに応じず、終戦までチェコスロバキアのプルゼニに潜伏していた。その後、進駐してきた赤軍による逮捕を逃れるべく、アメリカ占領区域へと移った[5]

しばらくは米陸軍のもとで通訳として働いていたが、やがて不正な手段を用いてパリに移った。ここで彼は父や祖父の名に助けられ現地の白系ロシア人コミュニティの一員となった。まもなくしてトロフィモフはアメリカへの移住希望者を募り、1947年12月にはKLMオランダ航空を利用しアムステルダムからニューヨーク市へ渡った[6]

1948年にはアメリカ陸軍に入隊し、1953年には陸軍予備役英語版に割り当てられた。1956年には陸軍を名誉除隊し、1987年には陸軍予備役からも大佐の階級で退役している。1959年から1994年にかけて、トロフィモフは陸軍軍属として情報関連の業務に割り当てられ、ラオス王国西ドイツにて勤務した。

スパイ活動

赤旗勲章

アメリカ陸軍将校としての勤務を通じ、トロフィモフは極秘(Secret)および最高機密(Top Secret)にアクセスする為のクリアランスを有していた。1969年、ニュルンベルク合同尋問センター(Nuremberg Joint Interrogation Center, JIC)のアメリカ陸軍部主任に着任する。JICはアメリカ、フランス、西ドイツの情報機関が共同で運営する施設で、その目的はソ連邦を始めとするワルシャワ条約機構各国からの亡命者や難民を取り調べて東側の情報を収集することだった。主任たるトロフィモフ大佐はJICにてアメリカ陸軍が収集または作成した全ての機密情報を閲覧する権限を有していた。

後の起訴内容によれば[7]、トロフィモフはJICにおける最高位のアメリカ軍人となった後、イゴール・ズーゼミールと再会し、彼を通じて交友関係を広げたという。当時、ズーゼミールはイリネイ(Iriney)という修道士名でロシア正教会修道司祭および主教として活動していた。そしてトロフィモフがしばしば金銭面で問題を抱えていたことを知ったズーゼミールは、彼に「KGBの仕事」を依頼した。この起訴においては、KGBはソ連邦国内外で活動するモスクワ総主教庁の聖職者らの中にズーゼミールのような協力者を複数確保していたとされている。

当時、ズーゼミールは補佐主教(auxiliary bishop)として西ドイツミュンヘンに派遣されていたが、1975年にはオーストリアウィーンにて府主教に就任した。以後、1999年に死去するまでこれを務めた[8]

1960年代を通じ、トロフィモフとズーゼミールは頻繁に顔を合わせ、親密な個人的関係を維持した。1999年、トロフィモフはFBI覆面捜査官との会話の中でズーゼミールとのやり取りについて次のように語った。

……あれは70年代のことだ。だが、非常にくだけた会合だった。写真もないし、ただ話しただけだ。彼が何か訪ね、私が何か応える──言語情報だ。彼は最近の出来事についていくつか質問を持ってくる。まず、これはわれわれ2人きりでの会話だった。彼はその出来事について私自身の意見を聞いた後、さらにこう尋ねるのだ。「それで、君の部隊ではそいつをどう考えているんだ?」、あるいは「アメリカ政府はそいつをどう考えている?」と[9]

ズーゼミールの行動に不信感を抱かなかったかと尋ねられた時には次のように応じた。

いや、最初はまったく疑わなかった。私は金が必要だと言ったんだ。それから、妻が買った家具の代金も払えないし、どうやって金を稼げばいいかわからないと。彼は「それじゃ、私が貸してやろう」と言ってくれた。それから確か5,000マルク程度の金を貸してくれたのだが十分ではなく、3、4週間後にまた彼に会って「もう一度助けてくれないか。機会があれば必ず返すから」と話したわけだ。で、この件は終わった。その後も彼とは何度も話した。いつも楽しかったよ。それから、彼はこう切り出したのさ。「さて、それで、何の話かはわかっているだろうね。君は私に金についての借りはない。それに、もっと必要なら用意してやることもできる。心配しなくていい。少しあれこれと仕事をして欲しいのさ」と。これが始まりだったわけだ[10]

1999年の会談において、トロフィモフ大佐は自宅へ持ち帰ることができた機密文書全てを特殊カメラと三脚で撮影し、その写真を日常的に持ち出していたと語った。彼によれば、これらの機密文書はオーストリアにて接触するKGBエージェントに引渡していた。一方、元KGB少将オレグ・カルーギン英語版によれば、コードネーム「侯爵」(Markiz)ことトロフィモフ大佐は、常にズーゼミールを通じて報酬を受け取っていたという。

さらにトロフィモフが語ったところによれば、ズーゼミールから週あたり通常7,000マルク程度の給与を受け取っていた。この給与は全て使用済み紙幣で支払われており、またトロフィモフが自宅の頭金を支払うために大金が必要だと話した時、ズーゼミールは一度モスクワへ向かい、90,000マルクを持って戻ってきたという。これは当時の金額で40,000米ドルに相当する[11]

2001年、カルーギンは1978年にズーゼミールを自分のダーチャに招いた旨を宣誓ののち証言し、「彼はいい仕事をした。特に"侯爵"を採用した件だ。彼が手がけた仕事に感謝したい[12]」と語った。

1999年、トロフィモフは1987年にズーゼミールからKGBの仕事をやめるよう命じられたため、命令通り「カメラをハンマーで叩き壊し、遠くのゴミ箱に投げ入れた」と証言した[13]

ドイツ連邦刑事局(BKA)、アメリカ連邦捜査局(FBI)、およびアメリカ検察当局は、トロフィモフがスパイ活動を通じて250,000米ドル以上の報酬を受け取っていたと主張している。また、カルーギンによればトロフィモフは、ソ連邦における「危険な任務への従事と勇敢に対する最高級軍事勲章」である赤旗勲章を受章しており、カルーギンは「結局、彼はそれに値する働きを果たしたのだ」としている[12]


  1. ^ Byers (2005), The Imperfect Spy: The Inside Story of a Convicted Spy. Page 8.
  2. ^ Byers (2005), pages 5-8.
  3. ^ a b Byers (2005), page xiii.
  4. ^ Byers (2005), pages 15-16.
  5. ^ Byers (2005), pages 16-19.
  6. ^ Byers (2005), pages 17-31.
  7. ^ George Trofimoff Affidavit Archived 2008年6月27日, at the Wayback Machine.
  8. ^ Ириней (Зуземиль) Biography information on the web-site of the ROC
  9. ^ Byers (2005), pages 111-112.
  10. ^ a b Byers (2005), page 112.
  11. ^ Byers (2005), page 114.
  12. ^ a b Byers (2005), page 172.
  13. ^ Byers (2005), pages 113-114.
  14. ^ Byers (2005), page 80.
  15. ^ Byers (2005), page 82.
  16. ^ Byers (2005), page 83.
  17. ^ Byers (2005), page 88.
  18. ^ John O. Koehler, The Stasi: The Inside Story of the East German Secret Police, Westview Press, 1999. Pages 225-236.
  19. ^ a b Byers (2005), page 126.
  20. ^ Byers (2005), page 105.
  21. ^ Byers (2005), page 169.
  22. ^ Byers (2005), pages 157-159.
  23. ^ Byers (2005), page 189.
  24. ^ Federal Bureau of Prisons Inmate Locator, Prisoner # 39090-018


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