サン・バルテルミの虐殺
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事件後
サン・バルテルミの虐殺で大打撃を受けたユグノーはラ・ロシェルに集結して抵抗の意思を示し、第四次戦争に突入する。王弟アンジュー公率いるカトリック軍がこれを攻撃したが、1573年7月にブローニュ王令が出されて和議が成立した。ユグノーは1574年に第1回改革派政治会議を開き、ユグノーの優勢な地域での徴税とそれを財源とした常備軍設立を決定し、ほとんど独立した状態となった[117]。1574年5月にシャルル9世は死去し、弟のアンリ3世が即位した。
その後、数次の開戦と休戦を繰り返したが、第四王子アラソン公フランソワやモンモランシー家が中心となった穏健派カトリックのポリティーク派がユグノーと同盟を結んで優勢になった[123]。ナバラ王アンリは1576年に宮廷から脱出してプロテスタントに再改宗している[4]。1581年にユグノーはナバラ王を「保護者("Protecteur")」として推戴した[124]。1584年6月に王弟アンジュー公フランソワ(元アラソン公)が死去し、サリカ法に則り、ナバラ王が筆頭王位継承権者となる[125]。
危機感を持ったカトリック陣営はスペインの後ろ盾を得てギーズ公アンリを盟主とする「カトリック同盟(ラ・リーグ、"la Ligue")」を結成して対抗した[124]。カトリック同盟はアンリ3世にナバラ王の王位継承権無効を迫り、内乱は宗教問題に王位継承問題が加わって、国王アンリ3世、カトリック同盟のギーズ公アンリそしてユグノー陣営のナバラ王アンリによる「三アンリの戦い」と呼ばれる様相を呈するようになる。
1588年にパリで発生した「バリケードの日」事件でカトリック同盟が国王に対して優勢に立ち、ほとんど全ての要求を受け入れさせたが[126]、アンリ3世は巻き返しを図り、同年に開催されたブロワ三部会の際にギーズ公アンリを暗殺した。この時、病床にあった母后カトリーヌは息子の愚行を嘆きつつ程なく死去している[127]。
アンリ3世はナバラ王と同盟してパリ奪回を図るが、翌1589年には国王も同盟側によって暗殺され、ヴァロワ朝は断絶した。ナバラ王アンリが王位を継承してブルボン朝が開かれた(アンリ4世)。カトリック勢力はアンリ4世の王位を拒否して根強く反抗した。1593年にアンリ4世はカトリックに改宗することで、翌年パリに入城することができた。この改宗によってカトリック勢力は次々とアンリ4世に帰順し、内乱は終息へと向かう[128]。
アンリ4世の改宗に改革派は危機を覚え、改革派政治会議を全国組織にし、会議は1595年から1597年の間、王権と並ぶ統治機関として機能した[129]。これに対しアンリ4世は改革派に宗教上の保証を与えるナントの勅令を1598年に発布した[6]。改革派はこれに満足し、王権への忠誠を誓った[130]。
結果的に結婚式がサン・バルテルミの虐殺の契機となったアンリ4世とマルグリットは不仲となり、子もなかった[131]。このため二人は、1599年に離婚している。
ナントの勅令で信仰を寛容されたユグノーは幾つかの安全保障都市を与えられてフランス内で独自の勢力を保つようになったが[132]、ルイ13世の治世に度々の討伐を受けて、その特権は縮小した[133]。そして1627-28年にリシュリュー枢機卿率いる国王軍にラ・ロシェルを包囲されて降伏し、すべての特権を失い辛うじて制限付きの信仰の自由だけが残された[132]。だが、ルイ14世の治世になって迫害が強まり、1685年のフォンテーヌブローの勅令でナントの勅令は撤廃され、ユグノーは信仰の自由すら奪われ、多くのユグノーが国を捨てることになった[19]。このため、現代のフランスではプロテスタント人口は1.7%と少数派になっている[134]。
注釈
- ^ 1533年にはパリ大学総長がルターに依拠して演説し、1534年にはカトリックのミサ聖祭の中止を訴える檄文事件が起こっている。
- ^ コリニー提督は国王に対してスペイン領ネーデルラントに介入するよう働きかけていた。Knecht(1998), p.154–57.
- ^ 歴史家たちの様々な解釈については Holt(1995), pp.83–4.を参照。
- ^ 歴史家マック・P・ホルトはパリに依然として滞在していた「24人から36人の貴族」であったであろうと推測している。Holt(1995), p. 85.
- ^ 歴史家ホルトはカトリックの廷臣たちが指導者ではないプロテスタント個人を救った事例を示して「大虐殺が阻止される可能性があったが一方で、宮廷の高官が虐殺を意図していた証拠はなかった」と結論付けている。Holt(2005), pp. 88-91
- ^ 期間は Garrisson(2000), p. 139, より、また同書では虐殺のあった都市にアルビを加えている。
- ^ ジャニーン・ギャリソンはこの事がボルドーの「火薬に点火した」(met le feu au poudres)とする見方には否定的である。Garrisson(2000), pp. 144-45
- ^ 19世紀半頃における推定値は、その他の詳細とともにユグノーの政治家および歴史家であるフランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーの著作 A Popular History of France from the Earliest Times, Volume IVに要約されている。
- ^ アクトン卿はこの件について詳細に検討し、「8000人以上である証拠はない」と結論付け、同時代の良質史料は常に最少の人数を示していると述べている。- Lectures on Modern History, "The Huguenots and the League", pp 162–163.
- ^ ヘンリー・ホワイトは詳細に検討して、歴史家たちの推定値の一覧を作成しており、その最大は10万人である。彼自身の推定値は2万人である。White(1868),p.472.
- ^ グレゴリウス13世とモールヴェールの件に関する根本史料はフランス国立図書館に所蔵されている当時の外交文書であり、"De la Ferrière, Lettres de Catherine de Médicis vol. 4 "(Paris: Imprimerie Nationale, 1891)でも解説されている。
出典
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