クルセーダー作戦 枢軸国軍の状況

クルセーダー作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 01:04 UTC 版)

枢軸国軍の状況

北アフリカ戦線での活躍がヒトラーに評価され、1941年7月1日付けでロンメルは装甲兵大将となった[26]

独断の多かったロンメルの指揮に対し、その戦闘結果からようやく信頼関係が醸成されてきたイタリア北アフリカ派遣軍総司令官のイータロ・ガリボルディ大将が7月12日にエットーレ・バスティコ大将に交替させられた[27]。新任のバスティコがロンメルの独断的な指揮に対し苦情を述べたため、立腹したロンメルは本国へ行き、7月31日にヒトラーに面会し状況を説明したものの、ヒトラーがイタリア側との対立を避けたかったため、はかばかしい返事は得られずムッソリーニと相談するよう指示された[28]

8月6日、ローマでロンメルはムッソリーニ、イタリア軍参謀総長ウーゴ・カヴァッレーロ元帥と会談し、当時の補給状況からトブルク包囲の維持は難しいため、トブルク西方で防御陣地を築く方がいいとするイタリア側に対し、補給物資の備蓄さえ充足すればトブルクの攻略は可能であると主張して、最終的にはイタリア側の了解を取り付けた[29]

8月15日付けでアフリカ装甲集団が創設され、ロンメルは正式にドイツ軍とイタリア軍を一体的に運用できるようになった[30]

イタリア北アフリカ派遣軍戦闘序列

イタリア北アフリカ派遣軍[* 9]

総司令官 エットーレ・バスティコ大将

イタリアから北アフリカへの補給の状況

1940年10月にシチリア島へ配備されたドイツ空軍第10航空軍団により、マルタ島を基地としていたイギリス海、空軍はその行動を阻害され、枢軸国軍のイタリアから北アフリカへの補給が順調に行なわれるようになった[36]。けれども、対ソ連戦争を重視したヒトラーにより、第10航空軍団が東部戦線へ投入されてからは[* 11]、マルタ島を基地としたイギリス海、空軍は、1941年末まで枢軸国軍の兵員及び物資輸送に対する脅威となっていた[38][39]

この被害の状況は、1941年の7-8月で 27,000 t の物資を喪失し、これは1940年6月から1年間に喪失した分に匹敵したものだった[37]。また、それ以降も被害は増大し[39][* 12]

  • 9月には、補充兵員13,000名のうち 6,000名、物資 27,000 t を喪失した。
  • 10月には、補充兵員 600名、物資 19,000 t を喪失した。
  • 11月には、物資 50,000 t を喪失した。
    • 潜水艦による商船の被害は10-12月でドイツ、イタリアを合わせて 25隻 79,218 t が撃沈された[41]

このような状況下で、枢軸国軍の輸送船舶の利用については、その積荷についてドイツ軍とイタリア軍が折半することとなっていた。このため、ドイツ軍が増強されるにつれ、補給の不公平が顕在化することとなった[42]


注釈

  1. ^ 小規模な威力偵察が4月11日に行われているが[8]、本格的な攻撃開始については、山崎 (2009)では4月12日としている[9]
  2. ^ 「中東方面軍」の訳語は「ムーアヘッド (1977)、p. 130」及び「『北アフリカ戦線』 (2009)、p.48」による。
  3. ^ ウェーベルは1941年6月21日付けで解任され[14]インドに転出し[15]、オーキンレックの任命は同年7月5日付けだった[14]
  4. ^ チャーチルは戦力、補給物資の充実速度が枢軸国軍よりもイギリス軍の方が早かったため、少しづつでも敵軍を攻撃し続ければさらに優位にたてるものと考えていた[16]
  5. ^ チャーチルは、例えばインド師団でイギリス人が歩兵部隊にあっては 1/3 、砲兵部隊ではその全部という比率であったにもかかわらず、オーキンレックが北アフリカのインド師団のように植民地名を冠する部隊と本国師団を交替させず別の地域に派遣することが、植民地諸国人が矢面にたっているという敵の宣伝材料となることを理解せず[16]。これとあわせて、彼がトルコ、シリア、パレスチナ経由のドイツ軍侵攻が北アフリカ線戦よりも脅威であると判断していたことに不満を抱いた[17]
  6. ^ 訳語は チャーチル (2001) による。
  7. ^ 作戦開始までの間に当初のオーストラリア第9師団から第70歩兵師団、ポーランド独立カルパチアライフル旅団及び陸軍第32戦車旅団が交替していて[24]、包囲されていたトブルクでその交替の際に犠牲はほとんどなかった[25]
  8. ^ 訳語は チャーチル (2001) による。
  9. ^ 序列上はイタリア北アフリカ派遣軍の方がアフリカ装甲集団よりも上位だった[31]
  10. ^ 第155狙撃兵連隊及び第361アフリカ連隊に10月15日から本国から増援された2個大隊を加えた編制で、11月2日にキレナイカに展開を完了した[33]。後の11月28日に第90軽アフリカ師団に名称を変更した[34]
  11. ^ 1941年6月で第10航空軍団のシチリアにおける実動機は180機となっていて、さらに北アフリカへ対地支援に回されたためさらに手薄となった[37]
  12. ^ イタリア、リビア間の船舶のトン数では、9月に 38.5 % 、10月には船舶が不足し、補給物資は 50,000 t となったがそのうち63 % が失われ、11月には 37,000 t となったものの 77 % が撃沈された[40][38]
  13. ^ カレル (1998)、pp.83-98. では、イギリス軍がロンメルの作戦計画(作戦実行日は不明)を入手していたとし、イギリス軍の作戦はこの情報をもとに作戦計画が変更され、その変更に対応する部隊配置は、枢軸国軍偵察機に発見されないよう隠蔽されながら、11月14日に完了した、としている[43]
  14. ^ 2個師団合計で249輌の戦車が配備されていた[49]
  15. ^ この雨のため枢軸国軍は偵察機を飛ばせず、イギリス軍の動向を察知できなかった[49]
  16. ^ カレル (1998)、p.111 では中将としている。
  17. ^ 26日に一旦はニュージーランド第2師団がシディ・レゼグを奪回しトブルク守備隊とは連絡がとれるようになったものの、再びドイツ軍の攻撃を受け、ニュージーランド第2師団は南東へ退却した[80]
  18. ^ 吉川 (2006)、p.45 では連隊としている。
  19. ^ 吉川 (2006)、p.45 ファシスト青年連隊とイギリス第22近衛旅団及びインド第11旅団が交戦したとしている。
  20. ^ ポーランド旅団、インド師団及びニュージーランド師団による攻撃が行なわれた[93]

出典

  1. ^ 『北アフリカ戦線』 (2009)、pp.10,12.
  2. ^ 『北アフリカ戦線』 (2009)、p.38
  3. ^ 『北アフリカ戦線』 (2009)、pp.14-17.
  4. ^ 『北アフリカ戦線』 (2009)、p.22
  5. ^ 山崎 (2009)、pp.213-214.
  6. ^ 山崎 (2009)、p.217
  7. ^ 山崎 (2009)、p.228
  8. ^ a b 『北アフリカ戦線』 (2009)、p.42
  9. ^ 山崎 (2009)、p.229
  10. ^ 『北アフリカ戦線』 (2009)、p.41-43.
  11. ^ 『北アフリカ戦線』 (2009)、p.24-28.
  12. ^ 『北アフリカ戦線』(2009)、pp.17-18.
  13. ^ a b 『北アフリカ戦線』(2009)、p.48
  14. ^ a b c 山崎 (2009)、p. 246
  15. ^ a b ムーアヘッド (1977)、p. 125
  16. ^ a b チャーチル (2001)、pp.41-42.
  17. ^ チャーチル (2001)、pp.40-41.
  18. ^ チャーチル (2001)、pp.40-44.
  19. ^ チャーチル (2001)、p.43
  20. ^ a b c 山崎 (2009)、pp. 251-252.
  21. ^ a b c 山崎 (2009)、pp.263
  22. ^ a b c d e ムーアヘッド (1977)、p.144
  23. ^ a b c d e 『北アフリカ戦線』(2009)、p.49
  24. ^ a b c d e 山崎 (2009)、p.252
  25. ^ ムーアヘッド (1977)、pp.128-129.
  26. ^ 山崎 (2009)、p.247
  27. ^ 山崎 (2009)、p.248
  28. ^ 山崎 (2009)、pp.248-249.
  29. ^ 山崎 (2009)、p.249
  30. ^ a b 山崎 (2009)、pp.249-250.
  31. ^ a b 山崎 (2009)、p.250
  32. ^ a b c 山崎 (2009)、p.258
  33. ^ a b 山崎 (2009)、p.254
  34. ^ 山崎 (2009)、p.265
  35. ^ a b ムーアヘッド (1977)、p.137
  36. ^ 『北アフリカ戦線』(2009)、pp.101-102.
  37. ^ a b 『北アフリカ戦線』 (2009)、p.106
  38. ^ a b マーレイ (2008)、p.225
  39. ^ a b 『北アフリカ戦線』 (2009)、pp.106-107.
  40. ^ カレル (1998)、p.153
  41. ^ ペイヤール (1997)、p.180
  42. ^ カレル (1998)、p.141
  43. ^ カレル (1998)、p.90
  44. ^ a b c d 『北アフリカ戦線』(2009)、p.26
  45. ^ ムーアヘッド (1977)、p.138
  46. ^ カレル (1998)、pp.67-81.
  47. ^ ムーアヘッド (1977)、pp.137-138.
  48. ^ ムーアヘッド (1977)、pp.138-139.
  49. ^ a b c 山崎 (2009)、pp.257
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  52. ^ カレル (1998)、pp.102-103.
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  55. ^ a b c ムーアヘッド (1977)、p.143
  56. ^ a b カレル (1998)、p.102
  57. ^ チャーチル (2001)、p.48
  58. ^ 山崎 (2009)、p.260
  59. ^ 吉川 (2006)、p.44
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  71. ^ a b チャーチル (2001)、pp.50-51.
  72. ^ カレル (1998)、p.111
  73. ^ カレル (1998)、p.113
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  75. ^ 山崎 (2009)、pp.260-262.
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  85. ^ 吉川 (2006)、pp.44-45.
  86. ^ カレル (1998)、p.119
  87. ^ カレル (1998)、p.126
  88. ^ カレル (1998)、pp.126-127.
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  90. ^ 山崎 (2009)、p.266-267.
  91. ^ カレル (1998)、pp.127-128.
  92. ^ a b 山崎 (2009)、p.266
  93. ^ ムーアヘッド (1977)、pp.172-173.
  94. ^ カレル (1998)、p.129
  95. ^ カレル (1998)、pp.159-160.
  96. ^ カレル (1998)、p.160
  97. ^ 山崎 (2009)、p.268
  98. ^ 山崎 (2009)、pp.268-269.
  99. ^ ムーアヘッド (1977)、p.187
  100. ^ カレル (1998)、p.135
  101. ^ カレル (1998)、pp.137-138.
  102. ^ 『北アフリカ戦線』 (2009)、p.108
  103. ^ ムーアヘッド (1977)、pp.185
  104. ^ 『北アフリカ戦線』 (2009)、p.50
  105. ^ 山崎 (2009)、p.271






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