クルセーダー作戦
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イギリス軍の状況
エジプトに侵攻してきたイタリア軍をエル・アゲイラの西まで追い詰め潰滅させたが、ロンメルの反攻によりエジプト国境まで攻め込まれ、これに対する2度の反撃作戦を失敗したため[12]、イギリス首相ウィンストン・チャーチルは中東方面軍 (Middle East Command) [* 2]総司令官をアーチボルド・ウェーヴェル大将からクロード・オーキンレック大将に替えた[13][* 3]。チャーチルはオーキンレックと連絡を交わすうちに彼が北アフリカの枢軸国軍に対し直ちに攻勢をとらなかったこと[* 4]また、第50ノーサンブリア歩兵師団 (50th (Northumbrian) Infantry Division) をキプロスへ派遣したこと[* 5]から不満を抱くこととなった[18]。オーキンレックの主張する、戦力を充実して後北アフリカの枢軸国軍に対する攻撃を開始する(開始日を1941年11月1日とする。)ことについて、チャーチルは7月に彼を本国に召還し、議論の結果これを承認するにいたった[19]。
また、中東方面軍は増強を受け、軍の編制で従来からの第13軍団に加え第30軍団が創設され、この2個軍団を基幹としてこれらを統轄する第8軍が創設された[15][20]。
第8軍戦闘序列
第8軍 (Eighth Army)[20]
- 司令官 アラン・カニンガム中将 (Alan Cunningham (11月26日付けで解任され、後任にニール・リッチー少将 (Neil Ritchie) が任命された[21]。))
- 第13軍団 (XIII Corps) ゴッドウィン=オースティン中将 (Alfred Reade Godwin-Austen[14])
- ニュージランド第2師団 (2nd New Zealand Division)
- インド第4歩兵師団 (4th Indian Infantry Division)
- 第1陸軍戦車旅団 (1st Army Tank Brigade)[* 6]
- 第30軍団 (XXX Corps) ウィロビー・ノリー中将 (Willoughby Norrie)
- 第7機甲師団 (7th Armoured Division)
- 第4機甲旅団 (M3軽戦車を装備[22][23])
- 第7機甲旅団
- 第22機甲旅団(バレンタイン歩兵戦車を装備[22])
- 第7支援群 (7th Support Group)
- 南アフリカ第1師団 (1st South African Division)
- 第22近衛旅団 (22nd Guards Brigade)
- 第7機甲師団 (7th Armoured Division)
- トブルク守備隊[* 7]
- 第70歩兵師団 (70th Infantry Division)[24]
- 第14歩兵旅団
- 第16歩兵旅団
- 第23歩兵旅団
- ポーランド独立カルパチアライフル旅団 (Polish Independent Carpathian Rifle Brigade)
- 第32陸軍戦車旅団[* 8]
- 第70歩兵師団 (70th Infantry Division)[24]
- 軍直轄予備
- 南アフリカ第2師団 (2nd South African Division)
注釈
- ^ 小規模な威力偵察が4月11日に行われているが[8]、本格的な攻撃開始については、山崎 (2009)では4月12日としている[9]。
- ^ 「中東方面軍」の訳語は「ムーアヘッド (1977)、p. 130」及び「『北アフリカ戦線』 (2009)、p.48」による。
- ^ ウェーベルは1941年6月21日付けで解任され[14]インドに転出し[15]、オーキンレックの任命は同年7月5日付けだった[14]。
- ^ チャーチルは戦力、補給物資の充実速度が枢軸国軍よりもイギリス軍の方が早かったため、少しづつでも敵軍を攻撃し続ければさらに優位にたてるものと考えていた[16]。
- ^ チャーチルは、例えばインド師団でイギリス人が歩兵部隊にあっては 1/3 、砲兵部隊ではその全部という比率であったにもかかわらず、オーキンレックが北アフリカのインド師団のように植民地名を冠する部隊と本国師団を交替させず別の地域に派遣することが、植民地諸国人が矢面にたっているという敵の宣伝材料となることを理解せず[16]。これとあわせて、彼がトルコ、シリア、パレスチナ経由のドイツ軍侵攻が北アフリカ線戦よりも脅威であると判断していたことに不満を抱いた[17]
- ^ 訳語は チャーチル (2001) による。
- ^ 作戦開始までの間に当初のオーストラリア第9師団から第70歩兵師団、ポーランド独立カルパチアライフル旅団及び陸軍第32戦車旅団が交替していて[24]、包囲されていたトブルクでその交替の際に犠牲はほとんどなかった[25]。
- ^ 訳語は チャーチル (2001) による。
- ^ 序列上はイタリア北アフリカ派遣軍の方がアフリカ装甲集団よりも上位だった[31]。
- ^ 第155狙撃兵連隊及び第361アフリカ連隊に10月15日から本国から増援された2個大隊を加えた編制で、11月2日にキレナイカに展開を完了した[33]。後の11月28日に第90軽アフリカ師団に名称を変更した[34]。
- ^ 1941年6月で第10航空軍団のシチリアにおける実動機は180機となっていて、さらに北アフリカへ対地支援に回されたためさらに手薄となった[37]。
- ^ イタリア、リビア間の船舶のトン数では、9月に 38.5 % 、10月には船舶が不足し、補給物資は 50,000 t となったがそのうち63 % が失われ、11月には 37,000 t となったものの 77 % が撃沈された[40][38]。
- ^ カレル (1998)、pp.83-98. では、イギリス軍がロンメルの作戦計画(作戦実行日は不明)を入手していたとし、イギリス軍の作戦はこの情報をもとに作戦計画が変更され、その変更に対応する部隊配置は、枢軸国軍偵察機に発見されないよう隠蔽されながら、11月14日に完了した、としている[43]。
- ^ 2個師団合計で249輌の戦車が配備されていた[49]。
- ^ この雨のため枢軸国軍は偵察機を飛ばせず、イギリス軍の動向を察知できなかった[49]。
- ^ カレル (1998)、p.111 では中将としている。
- ^ 26日に一旦はニュージーランド第2師団がシディ・レゼグを奪回しトブルク守備隊とは連絡がとれるようになったものの、再びドイツ軍の攻撃を受け、ニュージーランド第2師団は南東へ退却した[80]
- ^ 吉川 (2006)、p.45 では連隊としている。
- ^ 吉川 (2006)、p.45 ファシスト青年連隊とイギリス第22近衛旅団及びインド第11旅団が交戦したとしている。
- ^ ポーランド旅団、インド師団及びニュージーランド師団による攻撃が行なわれた[93]。
出典
- ^ 『北アフリカ戦線』 (2009)、pp.10,12.
- ^ 『北アフリカ戦線』 (2009)、p.38
- ^ 『北アフリカ戦線』 (2009)、pp.14-17.
- ^ 『北アフリカ戦線』 (2009)、p.22
- ^ 山崎 (2009)、pp.213-214.
- ^ 山崎 (2009)、p.217
- ^ 山崎 (2009)、p.228
- ^ a b 『北アフリカ戦線』 (2009)、p.42
- ^ 山崎 (2009)、p.229
- ^ 『北アフリカ戦線』 (2009)、p.41-43.
- ^ 『北アフリカ戦線』 (2009)、p.24-28.
- ^ 『北アフリカ戦線』(2009)、pp.17-18.
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- ^ ムーアヘッド (1977)、pp.185
- ^ 『北アフリカ戦線』 (2009)、p.50
- ^ 山崎 (2009)、p.271
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