カンボジア 国名

カンボジア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/16 06:45 UTC 版)

国名

正式名称は、クメール語ព្រះរាជាណាចក្រកម្ពុជា(発音:プレアリアチアナーチャッカンプチア、ラテン文字表記:Preăh Réachéanachâkr Kâmpŭchea)。プレアは王の称号。リアチアは「王」、ナーチャックは「国」で、両方合わせたリアチアナーチャックは「王国」を意味する。隣国のタイの正式名称とよく似ている。

公式の英語表記は、Kingdom of Cambodia(キングダム・ァヴ・カンボゥディア)。略称は、Cambodia

日本語表記は、カンボジア王国、通称は、カンボジア。漢語表記柬埔寨広東語発音でGan-pou-chia[k]、北京語発音でJian3-pu3-zhai4)。カンボジアでは自分の国を「カンプチャ」と呼んでおり、建国者といわれるインドバラモン僧「カンプー」とその子孫を意味する「チャ」に由来するとされる。

20世紀前半までの中国およびベトナムでは高棉中国語: Gāo-miánベトナム語: Cao Miên)とも呼ばれた。

歴史

古代

クメール朝

アンコールワットアンコール遺跡のひとつで、カンボジア国旗の中央にも同国の象徴として描かれている

9世紀初頭にクメール王朝が成立し、12世紀から13世紀にかけて最盛期を迎え、アンコール遺跡が建造された。

カンボジアの暗黒時代

16世紀ごろに、ポルトガルの商人やカトリック教会宣教師が最初にカンボジアに到来した西洋人であったと考えられている。続いてスペイン人オランダ人17世紀半ばからフランス人が到来した[2]

保護国時代

1863年フランス帝国保護国となり、1887年フランス領インドシナの一部となった。フランス保護下でも形式的に王国体制は存続し、1904年シソワット王が、1927年シソワット・モニヴォン王が即位した。シソワット・モニヴォン王の下で1940年から1941年にかけての間にタイ・フランス領インドシナ紛争が勃発し、東京条約によってフランス領インドシナを構成していたカンボジアのナコーン・チャンパーサック県タイ語版(現在のチャンパーサック県プレアヴィヒア州)、ピブーンソンクラーム県英語版(現在のウドンメンチェイ州シェムリアップ州バンテイメンチェイ州)、プレアタボン県英語版(現在のバタンバン州)がタイ王国に割譲された。1941年に即位したノロドム・シハヌーク王の治下では、第二次世界大戦中に日本軍に占領されるも、明号作戦によってフランス領インドシナが解体されたあと、大戦末期の1945年3月13日に独立を宣言した。1945年8月にシハヌーク王を後見していた日本連合国に敗北したあと、フランス領に復帰するも、1949年フランス連合の枠組みの中で独立を認められ、1953年に完全独立を達成した。

独立と内戦

仏印内東隣のベトナム共産主義北ベトナム反共資本主義体制の南ベトナムに分かれて独立した。北ベトナムおよび南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)は、ラオスおよびカンボジア領内の「ホーチミン・ルート」を経由して南ベトナムへのゲリラ攻撃を行う。これに対してアメリカ合衆国は軍事介入を行い(ベトナム戦争)、1968年にはアメリカ軍がカンボジア・ラオス領内のホーチミン・ルートへの空爆を開始する。1970年には親米派のロン・ノル将軍がクーデターによりシハヌーク元首を追放し、クメール共和国を樹立した。これに対して北ベトナムがカンボジアへの侵攻を開始すると、ロン・ノル政権は国内のベトナム系住民に対する迫害・虐殺を行う。また、中華人民共和国北京に亡命したシハヌークは、共産主義勢力クメール・ルージュなどを含む反米・反ロンノル勢力の武力共闘を呼びかけ、カンプチア王国民族連合政府の樹立を宣言。カンボジア内戦が始まる。ロン・ノル政権下でも米軍による空爆は拡大し、数十万人のカンボジア人が犠牲となり、数百万人が難民となった。米軍と南ベトナム軍による地上侵攻も行われている。

ベトナム戦争が北の勝利で終結することが間近となった1975年4月17日、カンボジアではクメール共和国が打倒され、民主カンプチアを樹立したクメール・ルージュ政権はシハヌークとペン・ヌートをそれぞれ国家元首と首相に推戴するも、実権はポル・ポトに掌握されていた。クメール・ルージュの権力掌握から1979年1月6日の民主カンプチア崩壊までの3年8か月20日間のポル・ポト政権下にて、原始共産制の実現を目指すクメール・ルージュの政策により、旱魃飢餓疫病虐殺などで100万人から200万人以上とも言われる死者が出た。この死者数は、1970年代前半の総人口は700万人から800万人だったとの推計の13 - 29%にあたり、大量虐殺が行われた。教師医者公務員資本家芸術家宗教関係者、その他イデオロギー的に好ましくないとされる階層のほとんどが捕らえられて強制収容所に送られた。生きて強制収容所から出られたのはほんの一握りであった。それゆえ、正確な犠牲者数は判明しておらず、現在でも国土を掘り起こせば多くの遺体が発掘される。なお、内戦前の最後の国勢調査1962年であり、それ以後の正確な人口動態がつかめておらず、死者の諸推計に大きく開きが出ている。

1978年12月25日中ソ対立の文脈の中でソ連寄りのベトナム社会主義共和国正規軍カンプチア救国民族統一戦線が、対立していた中国寄りの民主カンプチアに侵攻。翌1979年1月、ポル・ポト政権を打倒して親越派のヘン・サムリンを首班とするカンプチア人民共和国を樹立した(カンボジア・ベトナム戦争)。なお、このベトナムによるカンボジアへの侵攻をきっかけに、同1979年2月に中華人民共和国がベトナムに侵攻し、中越戦争が勃発している。その後、ポル・ポト派を含む三派とベトナム、ヘン・サムリン派との間で内戦が続いた。

1982年6月、カンボジア・タイ国境地帯に逃れたポル・ポト派、クメール人民民族解放戦線(KPNLF、ソン・サン1979年10月結成)、独立・中立・平和・協力のカンボジアのための民族統一戦線(FUNCINPEC、シアヌーク1981年3月樹立)の三派が民主カンプチア連合政府(CGDK)英語版を樹立した。カンプチア人民革命党と反ベトナム三派連合政府の対立が継続する[3]1989年ベトナム軍が撤退、1991年10月にパリ和平協定が締結された。

制憲議会発足

1992年3月から国際連合カンボジア暫定統治機構による統治が開始され、1993年5月には国際連合の監視下で民主選挙が実施された。このときの国連の代表が日本の明石康である。6月2日、国連安全保障理事会は、選挙が自由・公正に行われたと宣言し、選挙結果を尊重するよう全会派に呼びかける決議をした。さらに6月10日には、選挙結果の確定を承認し、制憲議会を全面支持する旨を決議した[4]。9月に制憲議会が新憲法を発布し立憲君主制を採択、ノロドム・シハヌークが国王に再即位した。憲法は「複数政党制に立脚した自由な民主主義」を憲法原則のひとつとした。制憲議会は国民議会に移行した。

1999年4月に10番目の東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国となった。

2009年12月18日カンボジア特別法廷[5]は、キュー・サムファン元国家幹部会議長を大虐殺(ジェノサイド)罪でも訴追することを通知した。法廷は、16日までにヌオン・チア元人民代表議会議長、イエン・サリ元副首相の2名にも大虐殺罪適用を決定している。[6]

2013年カンボジア国民議会選挙では与党のカンボジア人民党が僅差でカンボジア救国党に勝利し、フン・セン首相の続投が決まった。

政治

カンボジア国民議会議事堂

政体

国家体制国王元首とする立憲君主制である。選挙君主制であり、ノロドム家英語版シソワット家英語版のメンバーから、王室評議会英語版が国王を選出する。王室評議会は、首相、両院の議長、両院の副議長(それぞれ2名ずつ)、上座部仏教の2つの宗派の代表(それぞれ1名ずつ)の合わせて9名からなり、秘密投票で国王を選出する。国王の地位は終身である。

1993年にカンボジア王国が成立した際、初代国王にノロドム・シハヌークが選出され、2004年10月の国王退位を受けてシハヌークの実子であるノロドム・シハモニが選出された。

行政

立法

立法府たる議会両院制を採用しており、定数125議席からなる国民議会下院)議員は直接選挙で選出され、定数61議席からなる元老院上院)議員は間接選挙と国王からの任命によって選出される。

1998年7月末に総選挙が実施され、総議席数122で投票率90.7%で、人民党64議席(41.4%)、フンシンペック党43議席(31.7%)、サム・ランシー党15議席(14.3%)、その他議席なしで得票率13.6%。人民党が第1党になったが、フンシンペック党とサム・ランシー党選挙結果に異議申し立てていたこともあり、単独で組閣することができず(総議席の3分の2以上の信任票が必要とカンボジア王国憲法第90条)連立政権が成立した。

2003年7月に総選挙が実施され、総議席123、投票率86.7%。人民党73議席(47.4%)、フンシンペック党26議席(20.8%)と大敗、サム・ランシー党24議席(21.9%)、その他なし(10.0%)。連立をめぐり紆余曲折を経て、翌年7月にようやく2党連立の新政権が発足した[7]

2013年の選挙で野党人民救国党が躍進した。

2017年に最大野党の人民救国党の党首が国家反逆罪により逮捕され、党も裁判所の命令で解党されただけでなく、所属する政治家も政治活動が禁止となった。翌2018年の総選挙では有力野党不在の選挙となり、与党人民党が下院全議席の125議席をとって事実上の一党独裁状態となっている[8]

政党

憲法

1993年、制憲議会を創設するための選挙が行われ、総議席数120で投票率89.04%で、人民党51議席(38.2%)、フンシンペック党58議席(45.5%)、仏教自由民主党10議席(3.8%)、自由モリナカ闘争1議席(1.4%)であった。制憲議会は、1993年9月の「カンボジア王国憲法」が発効を受けて国民議会に移行した。

カンボジア王国憲法には、内政不干渉紛争の平和的解決、永世中立が明記されている。

法律

カンボジアでは、クメール・ルージュ[9]時代にほとんどの法律家裁判官検察官弁護士)が殺害され、法律およびその資料も廃棄された。カンボジアが近代国家として再生、発展していくためには、0に近い状態から民法民事訴訟法などの基本法典を整備し、それらを運用する裁判官、弁護士などの法律家を育成することが不可欠であり、日本はこれらの法整備支援を行っている[10]

民事訴訟法は2007年7月から適用を開始しており、民法も2007年12月8日に公布され[11]、2011年12月21日から適用が開始された[12]

その他

世界経済フォーラムが2018年に公表した『世界競争力報告(Global Competitiveness Report)』では、カンボジアは腐敗指数が21.0で世界で5番目に腐敗している国と認定される[13]




  1. ^ a b c d World Economic Outlook Database, April 2014” (英語). IMF (2014年4月). 2014年10月4日閲覧。
  2. ^ 岡田知子「インドシナの枠組みの中で」/ 上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 173ページ
  3. ^ 上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 205ページ
  4. ^ 上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 207ページ
  5. ^ 大虐殺の審理始まる2009年2月18日『しんぶん赤旗
  6. ^ キュー・サムファン大虐殺罪で訴追『しんぶん 赤旗』2009年12月19日(土曜日)版
  7. ^ ここまで上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 217ページ
  8. ^ カンボジアで見たしなやかな、強権政治に対する抵抗”. 2019年3月10日閲覧。
  9. ^ Khmer Rouge、KRと略、フランス語、元来はシアヌークが左派を一まとめにして呼んだ言葉、近年は国際社会でポル・ポト派を指す用語となっている。天川直子「誰をどう裁くのか」/上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 210-213ページ
  10. ^ 宮崎朋紀「各国法整備支援の状況-カンボジア」
  11. ^ カンボジアが新しい民法を公布 | プレスリリース(2007年) | ニュースとお知らせ - JICA
  12. ^ カンボジアで民法の適用開始 | トピックス(2011年度) | ニュースとお知らせ - JICA
  13. ^ 世界で最も腐敗している国 ワースト29 | BUSINESS INSIDER JAPAN
  14. ^ 高橋美和「季節のリズム」/ 上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 78-80ページ
  15. ^ カンボジアの国土政策の概要”. 国土交通省国土政策局. 2020年2月4日閲覧。
  16. ^ カンボジア住所の日本式表記について”. 在カンボジア日本大使館. 2020年2月4日閲覧。
  17. ^ カンボジアのGDP World Economic Outlook Database, April 2015
  18. ^ アジア開発銀行 Poverty in Asia and the Pacific: An Update
  19. ^ 外務省 後発開発途上国
  20. ^ 天川直子「米をつくる」/ 上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 344ページ
  21. ^ IMFの2014年の各国のGDPデータ
  22. ^ 「特集 法整備支援の課題」『法律時報』2010年1月号(日本評論社)
  23. ^ 特集 日本の法整備支援
  24. ^ 「砲弾などを鐘として使わないで」 カンボジア政府、各学校に指示AFP、2018年7月30日閲覧。
  25. ^ 【グローバル時代をひらく】カンボジア・キリロム工科大学 英語でITを学ぶ『日本経済新聞』朝刊2018年10月31日(大学面)2018年11月5日閲覧。
  26. ^ Valerie Ooka Pang & Li-Rong Lilly Cheng. Struggling to Be Heard: The Unmet Needs of Asian Pacific American Children. SUNY Press (1998), p51. ISBN 0-7914-3839-2.
  27. ^ 岡田知子「ウサギの裁判官」/ 上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 52ペー
  28. ^ インドの『ラーマーヤナ』のカンボジア版で「リアム」(ラーマ)王子の栄光という意味。
  29. ^ 最終話第547話「布施太子物語(モハーウェサンドー)」、釈迦前世の物語
  30. ^ カンボジア、タイ、ラオス、ミャンマーにのみ残る
  31. ^ 岡田知子「天界の喜びから農民の苦しみまで」/ 上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 58ペー
  32. ^ 転倒現場で追悼式=死者347人に修正―カンボジア 朝日新聞 2010年11月25日





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