オーストラリアの歴史 植民地支配の本格化

オーストラリアの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/24 15:50 UTC 版)

植民地支配の本格化

流刑地

18世紀後半に至ると、イギリスはこの地の開発を本格的に進めるようになる。その目的は、先住民の迫害を伴う資源獲得や囚人対策と言われている。

1780年代のイギリスは、エンクロージャーによる土地喪失者、産業革命による失業者などが都会に集まって犯罪者の数が激増した。微罪に問われた者でも収監する法制度もあいまって国内の監獄は満員となり、囚人を収容しようにも余裕がなくなる事態となった。加えて1776年のアメリカ独立は、巨大な流刑地の喪失を意味していた。流刑地の確保は、政府にとって重要課題だったのである。

当初は、比較的イギリスに近いカナダや西アフリカが候補地として挙がっていたが、カナダは寒冷地であるため、また西アフリカは疫病に罹患する恐れがあるため対象から外され、その結果ニュー・サウス・ウェールズが選ばれた。政府は、退役海軍将校アーサー・フィリップ (Arthur Phillip) を初代総督に任命し、植民地建設に当たらせた。

フランシス・フォークスによるシドニー・コーブの概略図(1788年)。北は右側になる。現在では入り江の右下にはシドニー・オペラハウスが建設されている場所に該当する。

1787年5月13日、フィリップ率いる第1船団 (first fleet) 11隻は、1500名弱の人員(うち流刑囚約780名)を乗せてポーツマスを出航し、翌1788年1月18日にボタニー湾に到着した。その後、より入植に適した土地を求めて、北に12キロメートルのポート・ジャクソン湾内のシドニー・コーブを発見した。1月26日に上陸、この地のイギリスによる領有を宣言し、入植を開始した。これを記念して、1月26日は「オーストラリアの日 (Australia Day) 」と呼ばれる祝日となっている。1790年6月に、第2船団英語版6隻が、1791年7月から10月にかけて第3船団英語版10隻が到着し、徐々に開発が進められた。この過程で、入植者がアボリジナルを襲撃したり、逆にアボリジナルが入植者を殺害するといった事件が発生した。

入植開始時に、治安維持のため囚人らと共に到来した「ニュー・サウス・ウェールズ軍団 (New South Wales Corps) 」と呼ばれる将校らは、公有地を私有化した上、富裕層と結んで船荷の購入を独占した。未だ必需品を自給できない当時にあって、彼らは輸入貿易を押さえることにより利益を壟断した。また、通貨が普及していなかったことを利用し、輸入したラム酒を通貨の代わりとして巨利を得た。

イギリスは、エマンシピスト(刑期を終えた囚人)や自由移民に若干の土地を無償供与し、独立自営農民とする社会の建設を企図していたが、その目論見は早くも崩れ、富の偏在が進んだ。これを是正しようとした総督は富裕層と対立し、次々とその座から降ろされた。

日本との貿易を開けるのにアメリカの北西海岸の毛皮を使用する試みを支えることは1788年にニュー・サウス・ウェールズ州に英国の植民地を確立するための理由の一つだった。イギリス商人は、1785年から1795年の十年間に、サー・ジョゼフ・バンクス王立協会会長によって励まされ、彼らの政府によって支えられたと、この貿易を開発する粘り強くこの試みを試みた。但し、領域及び北太平洋の航行の長い間にした要求を断固に守るために、スペインは定められた。また、日本は鎖国政策に頑固に維持した。この対立に直面して、イギリス商人の希望及び努力は終に水泡に帰した。[5]

ラム反乱

1806年に総督に着任したウィリアム・ブライ (William Bligh) は、ニュー・サウス・ウェールズ軍団の専横を断つべく、大鉈を振るった。即ち、軍団の収入源たるラム酒を決済手段として使用することを禁じたのである。しかし、軍団の元将校ジョン・マッカーサーら現地の有力者がこれに反発。ニュー・サウス・ウェールズ軍団も同調した。1808年1月、少佐ジョージ・ジョンストン英語版 (George Johnston) 率いるニュー・サウス・ウェールズ軍団は総督府を襲撃し、拘束したブライを1年余りにわたって幽閉した。これを「ラム反乱 (Rum Rebellion) 」と呼ぶ。

副総督を自称したジョンストンは、同年7月まで植民地の実権を掌握した。その後も政権は反乱者側の手にあったが、イギリス本国から派遣されたラクラン・マクォーリー (Lachlan Macquarie) が1810年に総督に就任して、事態はついに収まった。ジョンストンとマッカーサーは本国で軍法会議に掛けられ、マッカーサーは事実上の無罪とされたが、ジョンストンは官職を剥奪され、ニュー・サウス・ウェールズ軍団は本国に召還された。以後マクォーリーは、決済手段としての通貨の流通を図ると共に、病院や道路、銀行の建設を推進して生活環境の向上に努めた。

侵略・植民地主義

オーストラリア各州の形成と変遷

入植当初のイギリス領は大陸東部、より具体的には東海岸から東経135度線に至る地域や周辺の島嶼部であったが、1825年に東経129度まで拡張され、1827年に全大陸が包含された。

ジョージ・バス (George Bass) とマシュー・フリンダース (Mathew Flinders) が1795年から行った調査は、ニュー・サウス・ウェールズ沿岸の地図の作成に貢献した。フリンダーズは地図製作に当たり、古代ギリシア人ローマ人が存在を信じていた「テラ・アウストラリス・インコグニータ(Terra Australis Incognita:「南方の未知なる大陸」の意)」にちなみ、「オーストラリア」の名をイギリス海軍省に提案した。

シドニー周辺に始まる奥地の探検は、ブルー山脈を越えることから始まった。グリゴリー・ブラックスランド、ウィリアム・ローソン (William Lawson) 、ウィリアム・チャールズ・ウェントワース (William Charles Wentworth) の3名は1813年、同山脈の先に広がる平野を発見した。これを契機に内陸開発が進められ、その拠点となる都市として、この平野にバサーストが建設された。

肥沃な大平野の発見は、牧羊業の勃興を促した。この頃イギリス毛織物業界は、原料の羊毛をヨーロッパ大陸から輸入していたが、オーストラリアはメリノ種を大陸の風土に合うよう改良して良質の羊毛を産した。ラム反乱の黒幕・マッカーサーは、牧羊業で財を成した人物の代表格である。

牧羊業は1834年、それまでの基幹産業たる漁業を上回るまでに成長した。欧米と隔絶したオーストラリアにあって、高額な輸送料を払ってなお採算の取れる商品は羊毛程度しかなかったという事情もあり、羊毛の輸出額は、19世紀半ばにはオーストラリアの輸出総額の半分を超えた。イギリスでは、輸入される羊毛の過半をオーストラリア産のものが占めた。

牧羊に必要な土地は、未開の公有地を無断で開拓する、いわゆるスコッターの横行によってもたらされた。総督府は居住地制限を実施したが効果はほとんどなく、現状を追認せざるを得なかった。

こうした開発は、アボリジナルとの間に流血の抗争を生んだ。その一方で、入植者との混血も進んだ。タスマニア島では、アボリジナル女性トゥルガニニが1876年5月に死去したことをもって、「純血」のアボリジナルは絶滅したとされる。

流刑植民地としての大陸の性格にも変化が現れた。タズマニアが1825年にニュー・サウス・ウェールズから分離したのを皮切りに、西オーストラリアやヴィクトリア、クィーンズランドが、それぞれ独立の植民地となった。これと並行して、総督による統治権の制限や、立法機関や行政機関の設置を要求する声が強まり、各植民地に評議会が設置された。1840年から1868年にかけて、全植民地が流刑制度を廃止した。


注釈

  1. ^ ニュージーランドもこうした会議に参加していたが、好調な経済情勢が連邦に加わる動機を弱め、独自路線を歩むこととなった。
  2. ^ 同日、首相ジョゼフ・クックは「大英帝国が戦争状態にあれば、オーストラリアも同様である」と発言した。両者の声明は英豪の結束を端的に示す言葉として有名になったが、オーストラリアがわざわざ世界の裏側に兵を送ったのは、それが国益に合致すると判断したからであり、英国への忠誠だけでは血を差し出すことはできない。竹田いさみは、両者の声明が対英感情を象徴している点に異論はないが、これが過度に重みを持ったために「国家イメージを歪曲させた」としている[7]
  3. ^ このときイギリス首相チャーチルがビルマ戦線へ兵を投入するよう試みたが、カーティンは頑強に反対して撤兵させたといわれる。しかし実際には、撤兵を決めたのはイギリス政府であった[9]
  4. ^ 1967年12月17日、ホルトは遊泳中に行方不明となった。捜索が行われたがホルトは発見されず、政府はホルトが死亡したとみられると発表。19日、マッキュエンがホルトを継いで首相に就任した。

出典

  1. ^ 藤川隆男ほか『オーストラリアの歴史』p.3
  2. ^ “古代インド人の豪州大陸への移住は約4000年前、新研究”. AFPBB News. (2013年1月15日). https://www.afpbb.com/articles/-/2920779 2014年2月23日閲覧。 
  3. ^ “900年前のアフリカ硬貨がひも解くオーストラリア史”. AFPBB News. (2013年8月23日). https://www.afpbb.com/articles/-/2963247 2014年2月23日閲覧。 
  4. ^ “オーストラリアを発見した日本人”. 産経新聞. (2014年4月8日). オリジナルの2014年4月8日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140408150431/http://sankei.jp.msn.com/economy/news/140408/fnc14040803230003-n1.htm 
  5. ^ Robert J. King, "'The long wish'd for object' — Opening the trade to Japan, 1785-1795", The Northern Mariner / le marin du nord, vol.XX, no.1, January 2010, pp.1-35.
  6. ^ 関根政美ほか『概説オーストラリア史』p.55
  7. ^ 竹田いさみ『物語 オーストラリアの歴史』pp.146-148
  8. ^ ジェフリー・ブレイニー『オーストラリア歴史物語』p.210
  9. ^ 藤川隆男ほか『オーストラリアの歴史』p.195
  10. ^ 『読売新聞』2007年3月10日付朝刊、『朝日新聞』2007年3月14日付朝刊
  11. ^ 西エルサレムの首都認定撤回=前政権から転換―オーストラリア(時事通信ニュース)”. LINE NEWS. 2022年10月18日閲覧。





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