オンタリオ州 歴史

オンタリオ州

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/13 09:08 UTC 版)

歴史

連邦に加盟するまで

ヨーロッパからの移民がやってくるまでは、この地域はアルゴンキン族、オジブワ族、クリー族(Cree)含む)、およびイロコワ族(ヒューロン族(Huron)含む)が住んでいた。17世紀初頭よりヨーロッパの探検家がやって来て、イギリス人はハドソン湾岸、フランス人は主に五大湖周辺に植民を開始した。

1763年に締結した七年戦争の講和条約「パリ条約」により、北米のフランス領土(ヌーベル・フランス)はほとんどすべてイギリスに譲渡することになった。1774年にはオンタリオも英領ケベックとして併合。その後1783年から1796年の間、アメリカ独立戦争を受けて、イギリスは本国政府に従順で、独立13州を離れオンタリオ地区へ流入する市民を援助した。この期間にオタワ川以西の地域の人口が増加。

1791年に旧ケベックがオタワ川を挟んで東側の「ローワー・カナダ」(Lower Canada、現在のケベック州)と西側「アッパーカナダ」(Upper Canada、現在のオンタリオ州)の2地域に分割統治されることになった。

1812年、米軍が侵入したがイギリス軍と先住民族の共同軍で防戦。但し1813年ヨークの戦いでヨーク(現在のトロント)を一時占領され焦土となった。戦後、本国からの移民が増え、政争・蜂起が起こり、カナダ全土(当時のアッパーカナダとローワーカナダ)に広がった。 その後、蜂起が収まり、本国政府はケベックに自治権を与える条件でカナダ地域を再度統合し、オンタリオでも1848年に議会制自治政治が開始された。以後アメリカ南北戦争などでの更なるアメリカからの侵略に備え、北米における英領植民地の広範囲の統合するため、1867年7月1日英領北アメリカ法が制定され、「カナダ自治領」(Dominion of Canada)が成立。カナダ自治領は4つの- オンタリオ、ケベックノバスコシアニューブランズウィック -で構成された。そのときトロントが州都となった。さらに1889年には北西オンタリオ地域が正式にオンタリオ州に併合された。

その後の歴史的出来事

19世紀末よりオンタリオ州北部の鉱物資源が注目され始めた。またオンタリオでの水力発電も盛んになったことから、オンタリオ水力発電委員会(Hydro-Electric Power Commission of Ontario)、後のオンタリオ・ハイドロ(Ontario Hydro)が設立された。20世紀にはゼネラルモーターズ(GM)とフォードがオンタリオ州に工場を設立、主要産業となる。

第二次世界大戦後、特にトロント大都市圏を中心に世界各国からの移民を受け入れ、オンタリオ州はカナダの中でも最も経済成長の大きな地域となる。


  1. ^ Gross domestic product, expenditure-based, by province and territory (2011)”. Statistics Canada (2013年11月19日). 2013年9月26日閲覧。
  2. ^ BIOGRAPHY”. Rihwaオフィシャルサイト. 2012年4月24日閲覧。





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