ウィリアム・マホーン ウィリアム・マホーンの概要

ウィリアム・マホーン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/12 03:15 UTC 版)

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ウィリアム・マホーン
William Mahone
生年月日 1826年12月1日
出生地 バージニア州サウサンプトン郡、モンロー
没年月日 1895年10月8日
死没地 ワシントンD.C.
前職 土木技師、教師、軍人、鉄道経営者
所属政党 再編党
配偶者 オテリア・バトラー

選挙区 バージニア州
在任期間 1881年3月4日 - 1887年3月3日
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土木技師としては、19世紀南北戦争の前のアンテベラム時代および後のレコンストラクション時代にバージニア州の道路や鉄道の建設に貢献した。

南北戦争中は、南軍の少将に任官されて指導者を務め、1864年北軍によるピーターズバーグ包囲戦中にクレーターの戦いの勝敗の行方を変えたことで良く知られている。

戦後のバージニア州で政界の指導者となり、再編党として知られるようになった黒人、共和党員および保守的民主党員の連衡を形成し指導することに貢献した。1881年ノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道を造った北部人同業者のためにアトランティック・ミシシッピ・オハイオ鉄道の支配権を失ったが、住まいのあるピーターズバーグ近くに教師を育てる学校の資金手当てをするために州の配当金の一部を充てる手配をした。バージニアの多くの文字を読めないアフリカ系アメリカ人を教育するために設立されたこの学校は、成長して現代のバージニア州立大学となった。

生い立ち、教育

マホーンはバージニア州サウサンプトン郡のモンローで、フィールディング・ジョーダン・マホーンとマーサ・ドルー・マホーン夫妻の息子として生まれた。モンローの小さな町は郡庁所在地のイェルザレム(1888年にコートランドと改名)からは約8マイル (13 km) 南、ノットウェイ川の堤にあった。父のフィールディング・マホーンはモンローで商店を経営しかなりの広さの農園も所有していた。1840年、家族はイェルザレムに転居し、父が酒場を経営した。そこではそばかすのあるアイルランド系アメリカ人の伝統を残す若者が、賭博とタバコを多量に喫むこととみだらな言葉を使うことで評判を取った。

若いマホーンは土地の校長から初期教育を受けたが、父からは数学について特別教育を受けた。短期間ではあるがイェルザレムからメヘリン川の南岸にある小さな町ヒックスフォードまで馬で郵便を運んだ。ヒックスフォードは後に北岸のベルフィールドと合併してエンポリア独立市となった。マホーンはレキシントンに開校されたばかりのバージニア士官学校に士官候補生として入学を許され、1847年に土木技師の資格を取って卒業した。

土木技師、鉄道建設者、家族

マホーンは1848年からカロライン郡にあるラッパハノック専門学校の教師を務めたが、積極的に土木技術を活かす世界での職を求めた。ゴードンズビルとアレクサンドリアを結ぶ88マイル (140 km) のオレンジ・アンド・アレクサンドリア鉄道の建設では幾らかの役割を果たした。新鉄道がうまくいったので、フレデリックスバーグとゴードンズビルとを結ぶ板道の建設に雇われた。

1853年ノーフォークのフランシス・マロリーから新しいノーフォーク・ピーターズバーグ鉄道を建設する主任技師として雇われた。マホーンが工夫したサウスノーフォークとサフォークの間のグレート・ディズマル沼地を通す12マイル (19 km)の道床には、沼の表面下に道と直行するように置かれた木材基礎を採用した。マホーンの丸太を使った道路は150年後の今も使われており、大重量の石炭を運ぶ用途にも耐えている。またサフォークとピーターズバーグ間の有名な52マイル (83 km) 接円線の設計と建設にも関与した。これはカーブが全くなく、現在ノーフォーク・サザン鉄道の基幹線となっている。

1854年、ノーフォーク郡のチェサピーク湾に面する新しいリゾート地、オーシャン・ビュー・シティの通りや区画を調査し配置を決めた。19世紀後半の路面電車の出現で、そこにアミューズメントパークが開発され、隣接する海浜に沿って遊歩道が造られた。マホーンの都市計画の大半は21世紀になっても使われており、今はノーフォーク市の一部となったオーシャン・ビューは再開発されている。

1855年2月8日、マホーンは、ピーターズバーグ出身のオテリア・ボイナード・バトラー (1803-1855) と故人になっていたスミスフィールド出身のロバート・バトラー博士の娘、オテリア・バトラー (1835-1911) と結婚した。ロバート・バトラーは1846年からその死の1853年までバージニア州財務官を務めていた。

若いオテリアは教養のある淑女だったと言われている。彼女とマホーンはノーフォークに住み、南北戦争の前の時代の大半はそこで生活した。13人の子供が生まれたが成人したのは3人に過ぎなかった。2人の息子ウィリアム・ジュニアとロバート、および1人の娘、やはり同じ名前のオテリアだった。

1855年の夏に激発し、ノーフォークとポーツマスの人口のほぼ3分の1を死なせた黄熱病の流行の時は、イェルザレムから幾分離れた母の家にいてその影響から免れた。しかし、疫病の結果として、ノーフォーク地区の人口が減ったために金融債務の履行が難しくなり、ピーターズバーグに向けた新しい鉄道の工事は行き詰まった。マホーンとその助言者マロリーはそれにも拘わらず倹約に努めて計画の完遂に向けて進んだ。

巷間に伝わる話に拠れば、オテリアとマホーンは新しく完成した鉄道で旅し、オテリアが読んでいるウォルター・スコット卿の作品「アイバンホー」などから駅の名前を付けていったと言われる。スコットのスコットランドを舞台にした歴史小説からウィンザー、ウェイバリーやウェイクフィールドなどの地名を選んだ。サザンプトン郡の小さな町、アイバーにはスコットランドの一地方「マッキーバー」を選んだ。二人の意見が一致しない所ではディスプタンタという名前が創られたと言われている。ノーフォーク・ピーターズバーグ鉄道は1858年に完工し、マホーンはその少し後で鉄道運行会社の社長に指名された。

幾つかの記録に拠れば、1860年時点でマホーンは7人の奴隷を所有していた。全て黒人で3人の男性3人(13歳、4歳、2歳)と女性4人(45歳、24歳、11歳、1歳)であった。それにも拘わらず、南北戦争の間や後で、アフリカ系アメリカ人の兵士や当時は特異であった元奴隷に対して思いやりを示し、その公平な処遇と教育のために熱心に働いた。








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