イルフェスハイム イルフェスハイムの概要

イルフェスハイム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/29 23:08 UTC 版)

紋章 地図
(郡の位置)
基本情報
連邦州: バーデン=ヴュルテンベルク州
行政管区: カールスルーエ行政管区
郡: ライン=ネッカー郡
緯度経度: 北緯49度28分
東経08度33分
標高: 海抜 97 m
面積: 5.89 km²
人口:
人口密度: 1,545 人/km²
郵便番号: 68549
市外局番: 0621
ナンバープレート: HD
自治体コード: 08 2 26 036
行政庁舎の住所: Schloßstraße 9
68549 Ilvesheim
ウェブサイト: www.ilvesheim.de
首長: アンドレアス・メッツ (Andreas Metz)
郡内の位置

イルフェスハイム (Ilvesheim) はドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州ライン=ネッカー郡に属す町村(以下、本項では便宜上「町」と記述する)。人口約7700人のこの町は、総人口240万人のライン=ネッカー大都市圏の一部をなしている。

地理

位置と自然環境

南側から見たイルフェスハイムの眺め。前景の川がネッカー川

イルフェスハイムは、ネッカー川が自然に大きく湾曲したその右岸側に位置する。この場所はオーバーライン地溝帯に含まれ、ライン=ネッカー大都市圏の一部をなす。大部分が、北側にネッカー運河が造られたことにより1920年代にできあがった島に位置している。その後、ネッカー川の河畔は野生化し航行不能となり、1987年に景観・自然保護地域に指定された。

町域の面積は、589ha強である。そのうち31.7%が住宅および交通用地(市街地)であり、6.8%が水域、58.7%が農業用地である。[2]

長期の北端はネッカー川の扇状地であり、さらに他に氾濫原が広がる。両者の多くは肥沃な土壌であり、収益の豊かな農耕地となっている。

隣接する市町村

イルフェスハイムは、南、西、北をマンハイムと直接境を接している。北東と東にはヘッデスハイムラーデンブルクエーディンゲン=ネッカーハウゼンが接する。マンハイムの他にも、ルートヴィヒスハーフェン・アム・ラインへは西に12km、ハイデルベルクへは南東に13kmと2つの大都市も遠くない場所にある。

自治体の構成

自治体としてのイルフェスハイムにはイルフェスハイムの他、アッツェルブッケル住宅地、射撃場やぶどう園が含まれる。

気候

西をハールト山地、東をオーデンヴァルトに挟まれたオーバーライン地溝帯の地形に護られ大変に穏やかな気候である。[3]最寄りのマンハイムにある観測所の1971年から2000年までの平均気温は10.5、平均の年間降水量は668mmであった。最も暖かい月は7月で平均気温は19.9℃、最も寒いのは1月で1.8℃である。盛夏には30℃を超える日も珍しくない。降水の多くは7月に降り、2月が最も乾燥する月である。[4]

1971年から2000年までのマンハイムの平均気温と平均降水量
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
気温 (℃) 1.8 2.7 6.6 10.0 14.8 17.6 19.9 19.5 15.4 10.2 5.2 2.9 平均気温 10.5
降水量 (mm) 40 38 46 48 73 74 83 49 56 54 55 53 年間降水量 668

歴史

イルフェスハイムは、766年3月14日付のロルシュ修道院への寄贈証書に「Ulvinisheim」村として初めて記録されている。村の名前の末尾が「-heim」なのは、フランケン風の地名である。この村の名前が、かつてこの地に住んでいた「Ulvinius」という人物の名に由来するのか、それともイルフェスハイム近郊でネッカー川に注ぐカンツェルバッハ川の別名「Ilbe」に由来するのかは、明らかでない。

このロルシュ修道院の所領は、1155年頃に皇帝フリードリヒ・バルバロッサによって彼の異母弟にあたる宮中伯コンラートの手に渡った。これ以後、13世紀の終わりまでイルフェスハイムは、確実にプファルツ選帝侯領であり、シュリースハイム・ツェントの一部をなしていた。領主権は、レーエンとしてシュトラーレンベルク家がこれを行使した。その後14世紀半ばにエアリヒハイム家、1550年から1645年までシュタイナハ家、1700年頃にフントハイム家がこれを引き継いだ。

プファルツ継承戦争の際、1689年にこの村は甚大な被害を受けた。1803年のプファルツ選帝侯廃止に伴い、イルフェスハイムはバーデン領となり、ラーデンブルク管区に属した。1863年からはベツィルクスアムト・マンハイムに移管されたが、これは後にマンハイム郡となった。

政治的には、帝国創設時の1871年から国民自由党がこの村の最有力政党であった。しかし、1890年頃にはSPD中央党によって追い落とされた。ヴァイマル共和政下でもこれらの政党が残った。1933年の帝国議会選挙では、中央党、NSDAPおよびKPDがそれぞれ24%を超える票を獲得した。

1970年代の市町村改編では、マンハイムへの合併が議論された。しかし、イルフェスハイムは独立を守り、1973年に新しく創設されたライン=ネッカー郡の一員となった。

過去にはイルフェスハイムの住民の多くは漁労で生活していた。この伝統に基づき、毎年6月第1週末にフィッシャーフェスト(漁師祭)が開催されている。

宗教

カトリックの聖ペーター教会

イルフェスハイムの教会は、おそらく951年に発足したと考えられている。1550年にレーエン領主は宗教改革を行い、ルター派の信仰がもたらされた。レーエン領主の意思に反し、プファルツ選帝侯はイルフェスハイムに1575年改革教会牧師を派遣した。1632年、イルフェスハイムの教会堂はスウェーデン軍により破壊され、三十年戦争後はゼッケンハイムと統合された。改革派教会は教会を再建したが、早くも1689年には、フランス軍によって内陣と塔が焼失した。

プファルツ選帝侯の教会分離により、教会堂はカトリックに所有権が認められた。プロテスタントの教区が再び設けられたのは1747年であった。改革派教会は神事を納屋で行い、1803年に新しい教会堂を完成させることができた。1872年にイルフェスハイムは独立したプロテスタント教区が設けられた。

1807年にはイルフェスハイムの住民のうち、47%がカトリックの、25%が改革派教会の、14%がルター派の信者であった。しかし1948年にはプロテスタントが50%、カトリックが46%という構成になっていた。イルフェスハイムのプロテスタント教会組織は現在、プロテスタントのバーデン地方教会ラーデンブルク=ヴァインハイム教会管区に属している。一方、イルフェスハイムのカトリック教会組織聖ペーター教会は、フライブルク大司教区マンハイム市首席司祭区に属している。

イルフェスハイムには18世紀の初めからユダヤ人が住んでいた。1852年には史上最多の194人が暮らしていた。その後都市部、特にマンハイムへの流出が起こり、1925年にはこの町に住むユダヤ人は23人になっていた。そのうち10人が国家社会主義者による迫害の犠牲となった。1810年に建てられたシナゴーグは1938年の水晶の夜に破壊された。[5][6]


人口推移

18世紀のイルフェスハイムはこの地域の典型的なサイズの町であった。1850年頃までに大きな増加があった。第二次世界大戦後には500人以上の旧ドイツ領の東プロイセンシレジア、チェコ領であったズデーテン地方などから放逐者を受け容れた。イルフェスハイムは、1871年から1925年までの間に人口増加率が大きかったマンハイム郡の市町村トップ5の一つに数えられる。1973年に人口はピークの8,196人になった。その後、徐々に人口は減少し、1997年の人口は6,862人であった。その後この町の人口は再び増加に転じ、新規住宅地の利用法指定などの支援を受けている。

1577 1777 1818 1852 1905 1939 1950 1967 1973 1997 2007
人口(人)[7] 330 763 995 1,414 1,833 3,195 4,296 6,968 8,196 6,862 7,768





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