イブライム・バレ・マイナサラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/15 08:09 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。2016年5月) ( |
イブライム・バレ・マイナサラ Ibrahim Baré Maïnassara | |
任期 | 1996年8月7日 – 1999年4月9日 |
---|---|
出生 | 1949年5月9日 ドゴンドゥーチ、ドッソ州 |
死去 | 1999年4月9日 ニアメ |
政党 | 独立民主復興国民連合(UNIRD)→ 民主進歩連合(RDP) |
名前
ニジェールの公用語はフランス語であり、Ibrahimの発音はイブラヒムではなくイブライムとなる。また、マイナサラをメナサーラとする資料もある。
1996年クーデター
1995年1月の総選挙により、大統領を民主社会会議(CDS)のマハマヌ・ウスマン、首相を社会発展国民運動(MNSD)のハマ・アマドゥとするコアビタシオンが成立すると、マイナサラは陸軍参謀長に任命された。だがウスマンとアマドゥの対立により政府は機能不全を起こし、政局は混乱した。マイナサラは国家機能の正常化を掲げ、1996年1月にクーデターを起こし、軍事政権救国委員会を発足させ、自らその委員長となった。
大統領就任と民政移管
救国委員会のもとで新憲法草案がまとめ上げられ、1996年5月には国民投票で正式に制定された。同年7月7日から7月8日にかけては大統領選が行われ、マイナサラは得票率約52%で当選し、翌8月7日に大統領に就任、12月に救国委員会は解散された。だがこの大統領選では不正な票の操作が行われたと、現在では言われている。また、投票2日目の7月8日に、マイナサラは突如として既存の選挙管理委員会を解散させ、新規の選挙管理委員会を設置したり、マイナサラの対立候補4人を2週間にわたって拘留するなど、公平な選挙とは言いがたい内容のものであった。
マイナサラの政権運営
アマドゥ・シセ前経済相を首相とする新内閣の任命が終了し、民政移管が完了すると、マイナサラは自らの支持基盤として与党独立民主復興国民連合(UNIRD)を設立した。だがその後、新与党として民主進歩連合(RDP)が設立された。1997年8月、RDP党首にハーミド・アルガビード元首相が選出され、マイナサラを支える強力な政治家として活動した。同年11月、野党との対立やストライキ問題を解決できないとして、マイナサラはシセを首相職から解任し、イブライム・ハッサン・マヤキ外相を新首相に任命した。
マイナサラは政権に就いている間、一貫して野党の活動を制限し、RDP優位の国政を維持しようとした。それが結果的に、1997年11月の国民議会選挙の野党のボイコットを誘発した。
|
- 1 イブライム・バレ・マイナサラとは
- 2 イブライム・バレ・マイナサラの概要
- 3 マイナサラ暗殺とその後
固有名詞の分類
ニジェールの軍人 |
ダオダ・マラム・ワンケ サル・ジボ イブライム・バレ・マイナサラ アダム・アルナ タンジャ・ママドゥ |
- イブライム・バレ・マイナサラのページへのリンク