アマルフィ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/18 03:03 UTC 版)
歴史
その起源は古代ローマ時代にまで遡る。海洋に面し、かつ複雑な地形に囲まれており、外敵の侵入を撃退するのに適していた。839年、ナポリ公国から独立を宣言してアマルフィ公国となり、イスラーム勢力との抗争のなかで、徐々に勢力を拡大させていった。872年にはサン・サルヴァトーレ島を守っていたイスラーム軍を海戦で撃破、この功績で東ローマ帝国からカプリ島を譲渡された。ただし、イスラーム勢力と対立しただけでなく、商業上の利益から同盟を結ぶこともみられた。アマルフィは、その後も公国の首都、貿易の拠点として発展し、一時はピサやヴェネツィアやジェノヴァと地中海の覇権を争い、黒海にも商業活動を広げた。例えば、現ウクライナの都市セヴァストポリに、アマルフィの港の跡が残されている。
アマルフィの人々は、航海に関する法典である「アマルフィ海法」を作成した。これが様々な海洋に関する法典の雛形となり、17世紀まで影響を持った。また、中国からイスラーム世界に伝わった製紙法がシチリア島経由でもたらされ、13世紀には製紙産業が勃興していた。
アマルフィの最盛期は11世紀に達成され、その後急速に衰退した。1131年にはノルマン人による征服、1135年、1137年はピサによる略奪、そして1343年での嵐によって都市の大部分が破壊された。
第二次世界大戦中、1943年9月9日までにアメリカ軍はアマルフィに対し上陸作戦を開始。同時期には、イギリス軍が近隣のナポリに上陸作戦を行い、ドイツ軍が激しく交戦していたため、アメリカ軍はドイツ軍と接触することなくアマルフィに上陸を果たした[5]。
アジェーロラ (NA) | スカーラ | |||
フローレ | アトラーニ | |||
アマルフィ | ||||
コンカ・デイ・マリーニ |
- ^ 国立統計研究所(ISTAT). “Total Resident Population on 1st January 2018 by sex and marital status” (英語). 2019年1月14日閲覧。
- ^ 国立統計研究所(ISTAT). “Tavola: Popolazione residente - Salerno (dettaglio loc. abitate) - Censimento 2001.” (イタリア語). 2012年11月22日閲覧。
- ^ 国立統計研究所(ISTAT). “Tavola: Superficie territoriale (Kmq) - Salerno (dettaglio comunale) - Censimento 2001.” (イタリア語). 2012年11月22日閲覧。
- ^ “2点間の直線距離を測る”. 2015年2月7日閲覧。
- ^ 米・英軍、ナポリに上陸(昭和18年9月11日 毎日新聞(東京・夕刊))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p407 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ ヘレナ・アトレー『柑橘類と文明 マフィアを生んだシチリアレモンから、ノーベル賞をとった壊血病薬まで』築地書館、2015年、74頁。ISBN 978-4-8067-1493-4。
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