天竺徳兵衛
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天竺 徳兵衛(てんじく とくべえ、慶長17年(1612年)? - ?[注釈 2])は、江戸時代前期の人物。播磨国高砂(現在の兵庫県高砂市)の人。日本人の海外渡航が禁止される以前の寛永年間、10代で朱印船に乗り、当時「天竺」と認識されていたシャム(現在のタイ、当時はアユタヤ王朝)へ2度にわたって渡航した。晩年に剃髪して宗心を名乗り、かつての海外渡航での見聞をまとめたとされる。
注釈
- ^ 高砂市のウェブサイトに本図の画像が掲出されているが、この肖像画の画家・成立年代や所蔵者などの情報は記されていない。高砂町歴史資料館の展示パネルには本図と同様の絵が掲出されているが、近代の日本画家相生垣秋津の画であるとのキャプションがある[1]。
- ^ 『日本大百科全書(ニッポニカ)』は「正確な生没年は不明」とした上で、「1612?-1707?」と生没年の概略を示す[2]。『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』は慶長17年(1612年)生まれとしたうえで没年不明とする[3]。『朝日日本歴史人物事典』は生年を疑問符付きで慶長17年(1612年)としたうえで没年不明とする[4]。
- ^ 伊藤静香の論文で用いられた用語を借用する。小林誠司は「徳兵衛の渡航物語」の語を用いている。
- ^ ただし「翻刻」は『高砂舟頭町徳兵衛天竺へ渡り候物語』を底本としつつも「脱落と思われる所は他の写本(※引用者注:国会図書館デジタルライブラリで参照できるほかの3冊)から転記」を施しているという。
- ^ ワット・ヤイチャイモンコン (Wat Yai Chai Mongkon) は ワット・チャオプラヤータイ (Wat Chao Phraya Thai) とも呼ばれ、ナレースワン王(在位: 1590年 - 1605年)が拡張した僧院である。(ケンペル『日本誌』収録の地図では"Tiampiatai"と記されている。このほか、西洋の文献や地図に "Thimpiatti", "Thimphiathey", "Tianpiatay", "Tiampiatay" といった名で記録されている[11]。
- ^ 原文では「ちゃ屋六こんひつひる」あるいは「中天竺ちゃ屋六こん」と記されている。
- ^ 山田長政については実在性を疑う説もあるが、この場合でも「山田長政」が「天竺」の住人であるという認識が絵馬奉納者にはあったことになる[19]。
- ^ この地域の歴史には、シャム族(小タイ族、現在のタイ王国の主要民族である狭義のタイ人)、シャン族(大タイ族)など、タイ諸語を話すタイ族が関わる。シャムの国家(アユタヤ王朝)とビルマの国家(タウングー王朝)の間では、16世紀以来泰緬戦争 (Burmese–Siamese wars) が断続的に続いていた。
- ^ 日本の尺貫法換算で3間≒5.45m
- ^ 「丁」を日本の尺貫法の1町(丁)≒109 mとした場合「1里」≒654mとなり、これだけでも現代の世界トップクラスの超高層建築物となる(超高層ビルの一覧参照)。
- ^ 明治期に「天竺徳兵衛物語」を収録した『漂流奇談全集』の校閲者は、建築は嘘でつき固めたもの、柱の太さはホラで吹き飛ばされないためのもの、などと諧謔味のある注釈を付している。なお、仏像や堂に金箔を貼るという叙述には「箔のことは実なり」と注釈しており、寺院のくだりを全て虚構と片付けているわけではない。
- ^ 金子哲・小林誠司らのグループ「天竺徳兵衛研究会」は、宝永4年の記年のある『播州高砂船頭徳兵衛渡天物語』の翻刻を行うとともに、徳兵衛の実像を求める研究成果を盛り込んだ解説を行っている[48][49]。
- ^ 伊藤静香は元禄15年(1702年)記の系統であろうとする
- ^ 木琴の日本への伝来時期については不明であるが、江戸時代初期に長崎に渡ってきたオランダ人が連れて来た「黒人」がもたらしたものではないかとする説がある[61]。
- ^ 室町時代の寧波の乱で当事者の一人となった、日本を拠点としていた中国人商人宋素卿を下敷きにしたキャラクター。
- ^ 弘化4年(1847年)上演の『
尾上梅寿一代噺 』は、三代目尾上菊五郎の引退に際して一世一代を銘打って行われた舞台で、菊五郎がさまざまな役に扮する四代目鶴屋南北の『独道中五十三駅 』に、天竺徳兵衛の妖術などの場面を加えたものである[66]。 - ^ この作品の舞台設定は架空の室町時代である。戦国期の豊後大友家には「吉岡宗歓」と称した吉岡長増が仕えており、軍記物などでも大友宗麟の重臣として名が挙げられる人物であった(『群書類従』第二十一輯所収の「大友記」では「吉岡宗観」と記されている)。もっともこの時代の歌舞伎に時代考証の概念は薄く、豊前国主の名は北条氏政、播磨国主の名は滝川左近之進(滝川一益は左近将監と称した)である。
- ^ 文禄の役の際に晋州城攻防戦で抗戦した晋州
牧使 金時敏を下敷きにしたキャラクター。近松門左衛門『本朝三国志』には猛将「もくそ判官」として登場しており、日本軍と激戦を行った人物として著名であった。 - ^ 『天竺徳兵衛古郷取梶』などとも記される。
- ^ 『踊形容外題尽』は豊国(国貞)が晩年に手掛けた江戸歌舞伎の歴史をたどるシリーズの一つで、歌舞伎の演目と見せ場を描いたもの[74]。
- ^ 天竺徳兵衛を題材とした演劇作品は『天竺徳兵衛韓噺』以後もたびたび制作されている[77]。
- ^ 初演時には徳兵衛に殺害された乳母の
五百機 の幽霊(松助の二役)を登場させているが、これは南北作品に初めて登場した幽霊であり、歌舞伎における「怪談もの」の嚆矢とも言われる[81][78]。
出典
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