スピンクロスオーバー
(Spin crossover から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/02/22 08:08 UTC 版)
スピンクロスオーバー(英語: Spin crossover)もしくはSCOは遷移金属錯体の中心金属のスピン状態が外部刺激に応答して相互変換する現象である[1]。スピンクロスオーバーを示す錯体をスピンクロスオーバー錯体もしくはSCO錯体と呼ぶ。スピンクロスオーバー錯体は通常、鉄イオンやコバルトイオンの錯体である[1]。
スピンクロスオーバーは1931年(昭和6年)にCambiとSzegöらによりFe(III)ジチオカルバメート錯体で初めて観測された[2]。配位子場理論が確立されるとスピンクロスオーバーに対する理解が進み、また1990年代にはスピンクロスオーバーのメモリ、ディスプレイ、およびセンシングデバイスにおける将来的な可能性が予言され、以降活発に研究されている[2]。
現象
配位子場理論によれば、遷移金属は配位子の与える配位子場と相互作用し錯形成することで、d軌道分裂を引き起こす。このうち、3d遷移金属錯体についてはd電子数が4から7までのときに高スピン配置(HS)と低スピン配置(LS)の2つのスピン配置が存在する[2]。2つの状態間のエンタルピー変化は配位子場分裂エネルギーとスピン対生成エネルギーの影響を受ける[2][注 1]。一方、低スピン状態から高スピン状態へのスピン多重度のエントロピー変化は常に正であるため、温度の上昇によりギブスの自由エネルギーの符号が正から負に変換される可能性があり、これによりスピンクロスオーバーが起こる[2][3]。つまり一般に、低温ではエンタルピー的優位性から低スピン状態が有利となり、高温ではエントロピー的優位性から高スピン状態が有利となるが、分子間相互作用の強さによって結合長が変わり振動エントロピーが変化することで、スピン状態の転移は連続的なものから不連続な一次相転移といろいろな形態を示す[4][2][3]。
スピンクロスオーバーには相転移型スピンクロスオーバーと平衡型スピンクロスオーバーに大別される[5]。相転移型スピンクロスオーバーは狭い温度域で突然発生するスピンクロスオーバーであり、平衡型スピンクロスオーバーは広い温度域で非常にゆっくりと発生するスピンクロスオーバーである[5]。平衡型スピンクロスオーバーは非常に遅い相転移であるが、高スピンと低スピンの間のスピン変換速度は相転移型よりか一般に早く、例えば、鉄原子のメスバウアー分光の時間スケール(10-7 s)よりか短いため、両スピンの平均化された四極分裂しか観測されない[注 2][5]。
摂動
熱摂動
熱摂動は、スピンクロスオーバーを誘発するために用いられる最も一般的な外部刺激である[6]。熱摂動によるスピンクロスオーバーの例として、[FeII(tmphen)2]3[CoIII(CN)6]2三方両錐体型錯体が挙げられる。なお、この錯体においてFeIIはエクアトリアル位に位置する。高スピンFeIIは 4.2 K to 50 Kの範囲では20パーセント未満にとどまっているが、室温では、メスバウアー分光で2.1 mm/sの吸収帯を示すように、試料中のFeIIの約3分の2が高スピン状態となっている。このような熱摂動によるスピンクロスオーバーはエントロピーによって駆動される。低スピンから高スピンへの転移に伴う全エントロピー利得のうち、約25パーセントは次の関係式に従うスピン多重度の増加に由来する。
![]()
LIESST効果を示す錯体の多くは、Fe2+錯体であり、Co2+錯体やFe3+錯体はほとんど発見されていない。これはFe2+錯体と比べてCo2+錯体やFe3+錯体では高スピン状態と低スピン状態の間で結合距離の差が小さく波動関数の重なりが大きいため、トンネル効果により準安定高スピン状態を作り出すことができないことが原因である[15][16]。しかし、π-πスタッキングなどの強い分子間相互作用を導入して双安定状態ポテンシャルにおける活性化エネルギーを変化させることで、光励起準安定状態を保持できるようになり、LIESST効果を示すことができる[15][16]。
これまで報告されている温度(約80 K)よりも高い動作温度を持ち、かつ長寿命な光励起状態を有する光スイッチング材料を設計することを目的として、LD-LISCと呼ばれる光磁気効果が有望なアプローチとして注目されている[17][18]。LD-LISCでは光照射による光感受性配位子の可逆的な光化学変化によって生じる配位子場(LF)強度の変化を利用し中心金属のスピン転移を誘発する[18]。つまり、配位子が本質的に影響を受けない通常のスピンクロスオーバーと異なり、LD-LISCでは光応答性配位子の構造変化が伴う。光感受性配位子の可逆的な光化学反応はシス・トランス光異性化反応が広く用いられている[18]。
開発
スピンクロスオーバーは刺激応答性分子スイッチとして磁気双安定性と外部刺激(温度、圧力、光、電場など)をリンクさせる能力を有することから、情報ストレージ、生体模倣センシング、分子デバイスへの応用が期待されており、盛んに研究が行われている[19][20]。
脚注
注釈
出典
- ^ a b “二酸化炭素を吸着してスピン状態を変える金属錯体の合成に成功! ー新たな金属錯体型ガスセンサーの開発へ期待ー”. 東北大学 (2020年). 2026年1月16日閲覧。
- ^ a b c d e f Kazuyuki Takahashi. “Spin-Crossover Complexes”. Inorganics (MDPI) 6 (1). doi:10.3390/inorganics6010032.
- ^ a b Gerard Comas-Vilà; Pedro Salvador (2025-06-23). “Rationalizing Spin-Crossover Properties of Substituted Fe (II) ComplexesClick to copy article link”. Inorganic Chemistry (ACS Publishing) 64 (30). doi:10.1021/acs.inorgchem.5c01523.
- ^ 宮下精二. “スピンクロスオーバー物質の相転移とダイナミックス”. 物性談話. 北海道大学理学研究科物理学専攻. 2026年2月12日閲覧。
- ^ a b c d 大阪大学理学部附属化学熱学実験施設 1988, p. 54.
- ^ Mikhail Shatruk, Alina Dragulescu-Andrasi, Kristen E. Chambers, Sebastian A. Stoian, Emile L. Bominaar, Catalina Achim and Kim R. Dunbar (2007). “Properties of Prussian Blue Materials Manifested in Molecular Complexes: Observation of Cyanide Linkage Isomerism and Spin-Crossover Behavior in Pentanuclear Cyanide Clusters”. J. Am. Chem. Soc. 129 (19): 6104–6116. Bibcode: 2007JAChS.129.6104S. doi:10.1021/ja066273x. PMID 17455931.
- ^ a b Gütlich, Philipp; Goodwin, Harold A. (2004), Gütlich, P.; Goodwin, H.A., eds., “Spin Crossover—An Overall Perspective”, Spin Crossover in Transition Metal Compounds I (Berlin, Heidelberg: Springer Berlin Heidelberg) 233: pp. 1–47, doi:10.1007/b13527, ISBN 978-3-540-40394-4 2021年10月21日閲覧。
- ^ a b V. Ksenofontov, A. B. Gaspar and P. Gütlich (2004). “Pressure effect studies on spin crossover and valence tautomeric systems”. Top. Curr. Chem.. Topics in Current Chemistry 235: 39–66. doi:10.1007/b95421. ISBN 3-540-40395-7.
- ^ “外場応答性金属錯体の開発”. 熊本大学. 2026年2月17日閲覧。
- ^ “光で分子の結合状態を変えることに成功: 一色の光が操る世界初の光スイッチングの可能性”. 独立行政法人科学技術振興機構 (2007年5月11日). 2026年2月17日閲覧。
- ^ Jorge Torres, et al (2025). “Mono- and sub-monolayer films of a high T1/2 spin-crossover molecule on HOPG: temperature- and light-driven spin-state transition”. Journal of Physics: Condensed Matter (Purpose-led Publishing) 37 (31). doi:10.1088/1361-648X/adf0d2 2026年2月17日閲覧。.
- ^ a b c Andreas Hauser (1991). “Intersystem crossing in the [Fe(ptz)6(BF4)2 spin crossover system (ptz=1‐propyltetrazole)”]. The Journal of Chemical Physics (AIP Publishing) 94 (4). doi:10.1063/1.459851 2026年2月17日閲覧。.
- ^ Coen de Graaf & Carmen Sousa (2010). “Study of the Light-Induced Spin Crossover Process of the [FeII(bpy)3]2+ Complex”. Chem. Eur. J. 16 (15): 4550–4556. doi:10.1002/chem.200903423. PMID 20229537.
- ^ a b José Antonio Real, Ana Belén Gaspar and M. Carmen Muñoz (2005). “Thermal, pressure and light switchable spin-crossover materials”. Dalton Trans. (12): 2062–2079. doi:10.1039/B501491C. PMID 15957044.
- ^ a b 放射化学ニュース. 日本放射化学会. (2001-12-28) 2026年2月17日閲覧。.
- ^ a b “鉄(III)スピンクロスオーバー錯体の光誘起スピン転移現象” (pdf). 熊本大学産業ナノマテリアル研究所. 2026年2月17日閲覧。
- ^ Jean-François Létard, Philippe Guionneau & Laurence Goux-Capes (2004). Towards Spin Crossover Applications. Topics in Current Chemistry. 235. pp. 1–19. doi:10.1007/b95429. ISBN 3-540-40395-7
- ^ a b c Marie-Laure Boillot; Jacqueline Zarembowitch (2004). Ligand-Driven Light-Induced Spin Change (LD-LISC): A Promising Photomagnetic Effect. 234. Springer Nature. pp. 261-276. doi:10.1007/b95419. ISBN 978-3-540-40396-8
- ^ “新しい結合の形成を伴う固体のスピンクロスオーバー現象を観測”. 物質材料研究機構. 2026年1月16日閲覧。
- ^ Zhen Shao; Yin-Shan Meng; Yuan-Yuan Zhu; Tao Liu (2025). “Spin crossover in metal–organic cages”. Dalton Transactions (Royal Society of Chemistry). doi:10.1039/d5dt01281c.
参考文献
- 大阪大学理学部附属化学熱学実験施設「平衡型スピンクロスオーバー錯体[Fe(acpa)2PF6の熱容量異常]」(pdf)『阪大化学熱学レポート』、大阪大学大学院理学研究科構造熱科学研究センター、1988年。
関連項目
- スピンクロスオーバーのページへのリンク