パシフィックコーストホッケーアソシエーションとは? わかりやすく解説

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パシフィックコーストホッケーアソシエーション

(PCHA から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/08/22 05:52 UTC 版)

パシフィックコーストホッケーアソシエーション
競技 アイスホッケー
創立 1911年12月7日 (114年前) (1911-12-07)
会長 フランク・パトリック
開始年 1912年
参加チーム 4
リーグレベル メジャーリーグ
国内カップ戦 スタンレーカップ
国 カナダの旗 カナダ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
競技場 バンクーバー、ビクトリア
シアトル、ポートランド
大陸 北アメリカ
最終年 1924年 (102年前) (1924)
最終優勝 バンクーバー・マルーンズ (1923-24)
最多優勝 バンクーバー・マルーンズ (6)
創立者 レスター・パトリック
フランク・パトリック

パシフィックコーストホッケーアソシエーション (英語: Pacific Coast Hockey Association, 略称:PCHA) または太平洋岸ホッケー協会は、1911年から1924年まで活動し、その後ウェスタンカナダホッケーリーグ (WCHL) と合併した、カナダのブリティッシュコロンビア州およびアメリカ合衆国のオレゴン州とワシントン州にチームを持つプロアイスホッケーのメジャーリーグである。

歴史

レスター・パトリック(英語版)とフランク・パトリック(英語版)の兄弟(パトリックス)は、1910年にNHAのレンフルー・ミリオネアーズでプレーした後、ブリティッシュコロンビア州ネルソンに移った。そこで製材業を営んでいた父親は1911年に事業を約44万ドルで売却し、コアなファン層もインフラもなく穏やかな冬とアイススポーツへの関心が低いカナダ太平洋岸の気候の中で、プロアイスホッケーリーグを新設した。

西部沿岸の温暖な気候では天然氷の使用が困難なため、バンクーバーとビクトリアに新しいリンクを設置することになり、ビクトリアのパトリック・アリーナは4,000席で建設費用は110,000ドル、バンクーバーのデンマン・アリーナは当時世界最大級の10,500席で210,000ドルをかけて12月に完成した。

ニューウエストミンスター・ロイヤルズ (1912)

1912年1月にニューウエストミンスター・ロイヤルズ、ビクトリア・セネターズ、バンクーバー・ミリオネアーズの3チームで新リーグはスタートした。レスターはビクトリアのフランチャイズを運営し、フランクがバンクーバーを運営してリーグの会長も務めた。リーグの3チームのロースターは主にナショナルホッケーアソシエーション (NHA) から引き抜かれた選手で構成されており、モントリオール・カナディアンズのニュージー・ラロンド(英語版)とモントリオール・ワンダラーズのハリー・ハイランド(英語版)は初年度の注目すべきスターとなった。初のリーグチャンピオンシップはロイヤルズが獲得した。

ビクトリア・セネターズ (1913)

1912年3月にNHAオールスターズによる西海岸ツアーが企画され、東西対抗「ワールドシリーズ」の萌芽が見え始めた。ラロンドとハイランドは1シーズンでNHAに戻ったが、ミリオネアーズに加入したサイクロン・テイラー(英語版)を始め、東部から選手を引き抜いた。1912–13シーズンを制したビクトリアはスタンレーカップチャンピオンのケベック・ブルドッグスとエキシビションシリーズを行い、2勝1敗で勝利した。

1913–14シーズンにPCHAとNHAは互いの選手の出場停止や契約を認め、選手の移籍を促進するためのドラフト制度の導入で合意した。セネターズはチーム名をビクトリア・アリストクラッツに変更した。シーズン終了後、リーグチャンピオンのビクトリアは東部に渡り、トロント・ブルーシャツと「非公式のホッケー・ワールドシリーズ」を開催し、[1]スタンレーカップの理事会がPCHAチャンピオンからの挑戦を受け入れることに同意し、リーグ間によるプレーオフがスタンレーカップチャンピオンを決定する新たな方法となり、スタンレーカップのチャレンジの時代は終わりを迎えた。

バンクーバー・ミリオネアーズ (1915)

1914–15シーズンには、ロイヤルズがアメリカ合衆国オレゴン州ポートランドに移転しポートランド・ローズバッズとなった。リーグチャンピオンのミリオネアーズは、5戦3勝制となる初のスタンレー・カップ・ファイナルでオタワ・セネターズをスイープで破り、PCHA初のスタンレーカップ優勝チームとなり、チャンピオンを輩出できるメジャーレベルのリーグであることを証明した。[2]ミリオネアーズの主力である全盛期のテイラーとフランク・ナイバー(英語版)、ミッキー・マッケイ(英語版)、バーニー・スタンレー(英語版)、サイ・グリフィス(英語版)らは、PCHAが採用した広範囲にオープンな前方パスのルールの下ではより速く、より流動的なゲームをプレーしていた。

1915–16シーズン、12月7日にシアトル・メトロポリタンズは、2,500人の観客の前でバンクーバーに3-2で勝利し、PCHAデビューを果たした。リーグ優勝のローズバッズはアメリカを拠点とするチームとして初めてカップファイナルに進出したが2勝3敗で惜しくも敗れ、NHAカナディアンズの初優勝を許した。[3]

シアトル・メトロポリタンズ (1917)

1916–17シーズン前に、カナダ政府が戦時下の訓練用施設としてビクトリアのパトリック・アリーナを接収したため、同地を本拠地としていたアリストクラッツはワシントン州スポケーンへ移転し、スポーケン・カナリーズとして1シーズンを過ごした。[4]シアトル・"メッツ"は加盟2年目で優勝し、カナディアンズを3勝1敗で破り、アメリカに本拠のあるチームとして初めてスタンレーカップを獲得した。[5]

1917-18シーズンは、PCHAに初めてプレーオフが導入された。それまではシーズンで最も成績が良いチームがチャンピオンと宣言され、スタンレーカップの挑戦権を得ていた。当初はシーズンを前後半に分け、それぞれの勝者が優勝を争う方式を採用したが、後に上位2チームが優勝決定戦を行う方式へと変更され、ポストシーズンの勝者がリーグ優勝となった。2試合の総ゴール数でミリオネアーズがメトロポリタンズに勝利したが、カップ決勝ではNHL創設初年度のトロント・アリーナズに2勝3敗で敗れた。

1919シーズンは活動を停止したポートランドに代わって、パトリック・アリーナが復帰したアリストクラッツがポートランドの選手たちの契約を引き継ぎ再び参入した。PCHAシーズン首位のミリオネアーズは、プレーオフでメトロポリタンズに敗れた。その後、メトロポリタンズはNHLカナディアンズとのスタンレーカップ決勝に臨んだが、当時流行していたスペイン風邪の影響で、シリーズは完了することなく2勝2敗1引き分けで打ち切られた。多くの選手が入院を余儀なくされ、カナディアンズのジョー・ホールはシリーズ中止の数日後に亡くなった。[6]

1919-20シーズン、首位のメトロポリタンズはプレーオフでも優勝し、NHLのセネターズと1920年のスタンレー・カップ・ファイナルを戦ったが、5回戦のシリーズはセネターズが3勝2敗で勝利した。[7]

第10回を迎えた1920-21シーズン、メトロポリタンズがPCHAのレギュラーシーズン首位となったが、ミリオネアーズとのプレーオフに敗れ、ミリオネアーズは当時最多の1万1千人の観客がホームで初戦を見守る中セネターズに勝利するも、カップファイナルシリーズは2勝3敗で敗退し、セネターズのNHL初の連覇を許した。[8]

1921年にウェスタンカナダホッケーリーグ (WCHL) が設立され、スタンレー・カップ・プレーオフはWCHLのチームを含むように変更された。1921-22シーズン、再びシーズン首位のメトロポリタンズはプレーオフでミリオネアーズに敗れ、ミリオネアーズはWCHLのレジャイナ・キャピタルズを2試合の得失点差で破るも、カップ決勝シリーズでは2勝3敗でトロント・セントパトリックスに敗れた。[9]

1922-23シーズンには、ミリオネアーズから改名したマルーンズがPCHAのレギュラーシーズン首位となり、アリストクラッツから改名したクーガーズとのプレーオフにも勝利したが、NHLセネターズに1勝3敗で敗れ、プレーオフ導入以降で初めてスタンレーカップ決勝進出を逃した。

最終となる1923-24シーズン、首位のメトロポリタンズはプレーオフでマルーンズに敗れ、マルーンズはWCHLカルガリー・タイガースに1勝2敗で敗退し、続く3戦制のカップ準決勝でNHLカナディアンズと対戦し2敗で敗退した。

シーズン終了後にメトロポリタンズは解散し、WCHLがマルーンズとクーガーズの2チームを吸収して、PCHAは財政難のため崩壊した。クーガーズは1925年にスタンレーカップを獲得したが、これはNHL以外のチームによる最後の獲得であり、2007年のアナハイム・ダックス優勝まで西海岸のチームによる最後のカップ優勝であった。

のちに経営難に陥ったWCHLはNHLに買い取られ、ポートランド・ローズバッズの全選手はNHL拡張チームのシカゴ・ブラックホークスに、ビクトリア・クーガーズは同じく拡張チームのデトロイト・クーガーズに売却された。レスターはニューヨーク・レンジャースのコーチとゼネラルマネージャーとして3度のスタンレーカップを獲得し、アイスホッケーで最初のファームシステムを開発し、多くのルール変更に関わった。

影響

パトリックスは伝統に縛られることなく、アイスホッケーに馴染みのない観客にとってよりエキサイティングなゲームにしたいという動機から、近代化のための一連のルール改革を実験的に導入した。

PCHA以前、ホッケーは正式なゾーン制度を設けずに行われていた。パトリックスはブルーラインを導入し、氷面をニュートラルゾーン、オフェンシブゾーン、ディフェンシブゾーンの3つのゾーンに分け、現代までつながるプレーの基本的な枠組みを作り上げた。

初期のホッケーでは、ラグビールールのようにパックを保持している選手が前進する必要があり、パックキャリアのラインを越えてパスを受けることは禁止されていた。PCHAはニュートラルゾーンで前方パスを許可し、試合の展開を大幅に広げた。この変更は1918年にNHLに導入された。

PCHAは1921年に、ブレイクアウェイ(ゴーリーとスケーターが1対1の状況)でディフェンスマンがパックキャリアに対して意図的に反則行為を犯したことへの対応としてペナルティーショットを導入し、ファウルを受けた選手に1対1でシュートの機会を復活させるというコンセプトを初めてゲームに取り入れた。

PCHAは、公共放送システムが不安定な時代にファンが選手を識別できるように、選手に番号を着用することを義務付けた最初のアイスホッケーリーグである。

初期のアイスホッケーでは、ゴールテンダーはセーブ時に立ったままでいなければならず、氷に倒れたり、シュートをブロックしたりすることは違反であったが、PCHAはゴーリーがパックを止めるための動作の制限を取り除いた。

PCHAはまた、プレーオフ制度、ディレイド・ペナルティ、アイシングルールの変更、ゴールやアシストの公式記録の方法など様々な導入や変更を試みた。

PCHAの最も先進的な動きの一つは、アメリカ合衆国への進出である。1914年のポートランド・ローズバッズに続いてシアトル・メトロポリタンズが1915年に加盟し、メトロポリタンズはPCHAチャンピオンシップを5回制覇し、9シーズンの間に7回ポストシーズンに進出した。アメリカのフランチャイズが加わったことで、PCHAは大陸のリーグとしてアメリカ市場がプロホッケーを支えられることを示した。これは1920年代後半のNHLの積極的なアメリカ進出に影響を与え、ニューヨーク、ボストン、シカゴ、ピッツバーグにフランチャイズが与えられた。

1912年に描かれた7人制の図。2人のディフェンスマンと3人のフォワードの間に「ローバー」が位置している。[10]

1916年1月には、パトリックスはPCHAを補完する女性によるリーグの設立について提案し、バンクーバー、ビクトリア、ポートランド、シアトルのチームが含まれていたが、リーグは結成されなかった。1921年2月、フランク・パトリックはPCHAと提携して女性初の国際選手権シリーズを開催することを発表し、バンクーバー・アマゾンズ、ビクトリア・キューピーズ、シアトル・ヴァンプスの3チームが出場した。

数々の実験的で先進的なシステムを採用したPCHAであったが、1912年の創設から1922–23シーズンまでローバーポジションを特徴とする7人制を採用していたため、1918年からのNHLとのスタンレーカップファイナルでは双方のルールを交互に採用してシリーズを進めていた。[11]その後に連携を図るため、NHAがローバーを廃止してから11年後、比較的遅くに標準的な6人制に移行している。

各シーズン概要

dagger スタンレーカップ 優勝
* スタンレーカップ 準優勝
シーズン チーム 優勝
1912 ニューウエストミンスター・ロイヤルズ、ビクトリア・セネターズ、バンクーバー・ミリオネアーズ ニューウエストミンスター・ロイヤルズ
1912–13 ニューウエストミンスター・ロイヤルズ、ビクトリア・セネターズ、バンクーバー・ミリオネアーズ ビクトリア・セネターズ
1913–14 ニューウエストミンスター・ロイヤルズ、ビクトリア・アリストクラッツ、バンクーバー・ミリオネアーズ ビクトリア・アリストクラッツ
1914–15 ポートランド・ローズバッズ、ビクトリア・アリストクラッツ、バンクーバー・ミリオネアーズ バンクーバー・ミリオネアーズ dagger
1915–16 ポートランド・ローズバッズ、シアトル・メトロポリタンズ、ビクトリア・アリストクラッツ、バンクーバー・ミリオネアーズ ポートランド・ローズバッズ *
1916–17 ポートランド・ローズバッズ、シアトル・メトロポリタンズ、バンクーバー・ミリオネアーズ、スポーケン・カナリーズ シアトル・メトロポリタンズ dagger
1917–18 ポートランド・ローズバッズ、シアトル・メトロポリタンズ、バンクーバー・ミリオネアーズ バンクーバー・ミリオネアーズ (シアトルとのプレーオフ2試合総得失点差) *
1919 シアトル・メトロポリタンズ、バンクーバー・ミリオネアーズ、 ビクトリア・アリストクラッツ シアトル・メトロポリタンズ (バンクーバーとのプレーオフ2試合総得失点差)
1919–20 シアトル・メトロポリタンズ、バンクーバー・ミリオネアーズ、 ビクトリア・アリストクラッツ シアトル・メトロポリタンズ (バンクーバーとのプレーオフ2試合総得失点差) *
1920–21 シアトル・メトロポリタンズ、バンクーバー・ミリオネアーズ、 ビクトリア・アリストクラッツ バンクーバー・ミリオネアーズ (シアトルとのプレーオフ2試合総得失点差) *
1921–22 シアトル・メトロポリタンズ、バンクーバー・ミリオネアーズ、ビクトリア・アリストクラッツ バンクーバー・ミリオネアーズ (シアトルとのプレーオフ2試合総得失点差) *
1922–23 シアトル・メトロポリタンズ、バンクーバー・マルーンズ、ビクトリア・クーガーズ バンクーバー・マルーンズ (ビクトリアとのプレーオフ2試合総得失点差)
1923–24 シアトル・メトロポリタンズ、バンクーバー・マルーンズ、ビクトリア・クーガーズ バンクーバー・マルーンズ (シアトルとのプレーオフ2試合総得失点差)

脚注

  1. ↑ 「Stanley Cup Toronto Blueshirts 1913-14」Hockey Hall of Fame 2026年7月13日閲覧
  2. ↑ 「Stanley Cup Vancouver Millionaires 1914-15」Hockey Hall of Fame 2026年7月13日閲覧
  3. ↑ 「Stanley Cup Montreal Canadiens 1915-16」Hockey Hall of Fame 2026年7月13日閲覧
  4. ↑ 「Spokane Canaries Team Photo 1916」2018年7月17日 HockeyGods.com PRESIDENT 2026年7月13日閲覧
  5. ↑ 「Stanley Cup Seattle Metropolitians 1916-17」Hockey Hall of Fame 2026年7月13日閲覧
  6. ↑ 「Stanley Cup No decision 1918-19」Hockey Hall of Fame 2026年7月13日閲覧
  7. ↑ 「Stanley Cup Ottawa Senators 1919-20」Hockey Hall of Fame 2026年7月13日閲覧
  8. ↑ 「Stanley Cup Ottawa Senators 1920-21」Hockey Hall of Fame 2026年7月13日閲覧
  9. ↑ 「Stanley Cup Toronto St. Pats 1921-22」Hockey Hall of Fame 2026年7月13日閲覧
  10. ↑ The Boston Globe January 30, 1912, p. 7. via—newspapers.com
  11. ↑ 「Stanley Cup Toronto Arenas 1917-18」Hockey Hall of Fame 2026年7月13日閲覧

外部リンク

NHLの前身リーグ
リーグ
AHAC (1886–1898)
WPHL (1896–1910)
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FAHL (1904–1909)
IPHL (1904–1907)
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TPHL (1906–1911)
OPHL (1908–1911)
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NHA (1909–1917)
PCHA (1912–1924)
NHL (1917–現在)
WCHL (1921–1926)
アイスホッケー ·



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