ピョートル・ウスペンスキーとは? わかりやすく解説

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ピョートル・ウスペンスキー

(P.D.ウスペンスキー から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 00:10 UTC 版)

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ピョートル・ウスペンスキー

ピョートル・デミアノヴィッチ・ウスペンスキーПётр Демьянович Успенский1878年3月4日 - 1947年10月2日)は、ロシアに生まれ、のちにイギリスを拠点として活動した著述家・思想家・教師。1915年にゲオルギイ・イヴァノヴィッチ・グルジエフと知り合うが、3年後には反発を覚えだし、人物としてのグルジェフを敬遠する一方でその思想の紹介者としての立場を強めていった。1947年10月の死に先立ち、グルジエフの思想を彼自身が独自にまとめなおしたものである「システム」の放棄を宣言している。

P・D・ウスペンスキーの生涯[1]

『イワン・オソキン』の執筆まで(1878年~1905年)

P・D・ウスペンスキーは一八七八年、ロシアのインテリゲンチャの家庭に生まれ、モスクワで子供時代を送った。

父は測量局の役人で、早くに亡くなっている。彼は数学を趣味とし、「第四次元」ということに関心を向けていた。どうして空間の認識は三次元でなければいけないのか、どこかに隠れているに違いない第四の次元を見つけよう、という一種のゲームであり、当時の知識人の間で流行していた。P・D・ウスペンスキーは、この関心を父から引き継いだ。母の一族は祖父母の代から画家であり、教会に収める宗教画のほか、近代的な絵画も手掛けていた。

P・D・ウスペンスキーは、のちに一九〇五年のロシア第一革命で捕らえられた後に獄死する妹とともに、自分には多少のいわゆる超自然的な能力があることを子供時代から知っていたという。二歳のころからの鮮やかな記憶を保持したことに加え、「自分は前にもここにいたことがある」という思いや既視体験が、やがて「生は反復する」という思いへと彼を導いた。

少年時代のウスペンスキーは、早くから文学と芸術に親しみ、五歳のころから読書を始め、十六歳にしてニーチェに傾倒し、やがて創作を始める、一九〇五年に処女作である『イワン・オソキンの不可思議なる人生』の草稿を書き上げた。

『イワン・オソキンの不可思議なる人生』は、規則や束縛を好まず、ギムナジウム(中高一貫校)を四年生で退学になったイワン・オソキンが25歳になって金持ちの令嬢ズィネイダと素敵な恋をするが、落ちこぼれの身ゆえにうまく行かず、愛想を尽かされて、自殺も考えたうえで魔術師のところに相談に行き、自分は人生をやり直したいので魔術を使って過去に戻してくれと頼み込み、魔術師はこの願いをかなえてやるという話である。あれこれ「知っている」自分がその知識を携えて過去に戻るのだから、すべていいようにやり直せると思っていたら、まったくそのようにはいかない。結局のところ自分はなにも変えられなかったっ……「知ること」の無力を痛感させられ、魔術師のところに戻ってくる。

『イワン・オソキンの不可思議なる人生』は、フィクションを交えてではあるが、P・D・ウスペンスキーが彼自身をモデルにして書いたものであり、グルジエフに会う前の彼の姿、「第四の道」の教師としてののちの彼とはまったく違うそれ以前の姿、さらには「永劫回帰」をはじめとする彼の思想の原点を知ることを可能とする、彼を深く知るためには必読の一冊である。

P・D・ウスペンスキーは、この物語のとおり、モスクワ第二ギムナジウムから退学処分を受けており、ズィネイダにも実在のモデルがいるという。

『イワン・オソキンの不可思議なる人生』の内容からは、P・D・ウスペンスキーがグルジエフに会う前から、グルジエフとの出会いを予見していた、あるいはグルジエフの思想を知っていたかのような印象を受ける。その後の修正を受けていないオリジナルのロシア語版でもこの印象は変わらない。

人間の機械性、性格への囚われ、「為す」ことの不可能性、すべてはただ起こる、永遠のくりかえし、知ることの無力……。P・D・ウスペンスキーがのちにグルジエフの考えとして『奇跡を求めて』[2]に収録したそれらの考えは、グルジエフの口から出たことは疑いようもないが、それらはグルジエフの考えなのか、それともグルジェフはウスペンスキーの心を読んでいたのか? それとも逆にウスペンスキーがまだ見ぬグルジエフの心を読んでいたのか? 『奇跡を求めて』には、グルジエフとウスペンスキーがテレパシーで会話する場面があるが、あるいは当時から二人の間には目に見えない精神のつながりがあったのかもしれない。

あるいは別の可能性として、グルジェフはその初期における教えの強調点をウスペンスキーから導き出したということも考えられる。グルジェフが一九一五年の時点で構想を練っていたバレエ劇『魔術師たちの闘争』[3]の筋は、『イワン・オソキンの不可思議なる人生』を意識したものである可能性が高い。どちらの物語でも、主人公は恋愛をめぐる問題の解決を求めて魔術師に会いに行く。ヒロインの名も、かたやゼイナブ、かたやズィネイダで、似たところがある。しかも、ウスペンスキーがグルジェフのことを最初に意識するのは、まさにこの『魔術師たちの闘争』をめぐる新聞記事を目にしたときのことだった。

神智学/オカルトへの傾倒~「ターシャム・オルガヌム」~インド旅行(1905年~1915年)

一九〇七年、P・D・ウスペンスキーは神智学運動を知り、ヘレナ・ブラヴァツキールドルフ・シュタイナーエリファス・レヴィなどによる書物を読みふけるようになった。P・D・ウスペンスキーは新聞社で働きだすが、デスクの引き出しには、たとえば次のような題名の本が入っていた。『オカルトの世界』、『死後の生』、『アトランチスとレムリア』、『高等魔術の教義と儀式』、『サタンの寺院』、『ある巡礼者の真実の告白』。

一九〇八年に神智学協会の活動がロシア国内で認められると、ロシアのインテリゲンチャの間でのオカルト熱はいっそう高まった。ちなみにグルジエフはというと、神智学運動、それから派生したシュタイナーの人智学運動、および当時流行した類似の運動に対する意見は一貫して否定的なものであった。

オカルトと神秘思想に加え、イマヌエル・カントの観念論、フリードリヒ・ニーチェの思想、それに「第四次元」に関するチャールズ・ヒントンの本から仕入れた大量の知識を利用して、一九一一年、P・D・ウスペンスキーは、大作『ターシャム・オルガヌム』を書き上げた。

『ターシャム・オルガヌム』は、P・D・ウスペンスキーの主著であり、彼の名を一躍有名にしたが、これを傑作と見なすかどうかは、かなり読者しだいである。この本のヒットは、「第四次元」という考えのその時代における流行に依存していた。また、『イワン・オソキン』では、確実にウスペンスキー自身というものがあったのに対し、『ターシャム』での議論は、イマヌエル・カント、チャールズ・ヒントンの受け売りが多く、論述もたいへんな熱を帯亭はいるが、つじつまがあわないところも多い。グルジエフやウスペンスキーを8年にわたって研究して『調和した環』を著した歴史家のジェイムス・ウエブは、次のように評している。

『ターシャム・オルガヌム』は啓示の書である。一九一一年、意識を変化させる実験への熱中を背景にウスペンスキーによって書かれた。[……]

『ターシャム・オルガヌム』は尋常ならざる本で、高い熱に浮かされて書かれたものという印象を受ける。ウスペンスキーの信奉者の多くは、これが彼の最高傑作だと今も思っている。そしてたしかに、彼を有名にしたのは、なんといってもこの本だった。はっきりと書かれた本で、最高の意味における「解放感」をもたらす。人があたりまえだと思って受け入れている作為的な枠組みによって人の意識は制限を受けているという主題をめぐるウスペンスキーの主張は重要な点を突いていて、説得力がある。

高次元の空間認識ということに話を結び付けているのは、たんなるアナロジーとして話を結び付けているだけかもしれないが、そんなことはどうでもよい。少なくとも二つの点で、彼の言っていることは、まったくもって根拠に乏しいが、それもどうでもよいだろう。無限の度数とかいうことに捧げられた章の内容は、考えてみると、なんのことかわからない。人間の意識と動物の意識の違いに関する論述も、まるごとでたらめと言えるかも知れない。ウスペンスキーが書くことを聖句みたいに受け取る人が、そうしたことを問題にするのだ。[……]

そうした観念[第四次元]のピョートル・ウスペンスキーによる利用法は、学問としての数学をほとんど無視したものである。ところが、彼の最初の英語の本[『ターシャム・オルガヌム』]が出版されたとき、[出版社の主張によれば]訳者の犯した間違いのせいで、厳格な学問の道を歩いてきたが、わけあって独自の学派を形成するに至った人物であると紹介され、いまでもそれが信じられている。[4]

さらにウスペンスキーは、麻薬を使った「実験的神秘主義」を追求し、のちにその結果を『宇宙の新しいヴィジョン』に収めている。また、インドとヨガに関心を抱く。1914年、複数の新聞社から資金面での助けを得て、P・D・ウスペンスキーはインドに旅立つ。ボンベイから入って、アグラで満月の夜にタージ・マハールを訪れた後、デリーへと向かったのが雨季の始まりだったというから、たぶん七月ごろのことだろう。その後、ヴァラナシを経て、南インドとセイロンに向かっている。ロシアに帰ってきたのは同年の11月で、すでに第一次世界大戦が始まっていた。

グルジエフとの出会い~ロシア脱出~コンスタンチノープル滞在~『ターシャム』の英語版のヒット~単身ロンドンへ(1915年~1924年)

一九一五年四月、P・D・ウスペンスキーはグルジェフと初めて面談する。当時の彼の関心のありかを反映して、真っ先に質問したのは、インドのことと麻薬のことだった。ウスペンスキーは、サンクト・ペテルスブルグでグルジエフのグループの活動に加わり、グルジエフの思想・知識を熱心に吸収する。P・D・ウスペンスキーは、恋人のアンナ・ブトコフスキーをグルジェフに紹介し、彼女もグループの一員になる。彼女の手記によると、グループ内でのウスペンスキーのニックネームは「要約屋」、彼女のニックネームは「よろめき」だった。[5]

まもなくP・D・ウスペンスキーのパートナーとなったのは別の女性だった。マダム・ウスペンスキーことソフィー・グレゴリヴナは、1874年にウクライナに生まれ、一九一七年にP・D・ウスペンスキーの紹介でグルジェフと出会い、やがてマダム・ウスペンスキーとして知られるようにななった。彼女はそれまでに二度結婚し、娘がひとりいた。マダム・ウスペンスキーとP・D・ウスペンスキーの間の関係は謎とされ、なんらかの事情から形式的に結婚したのだとも、正式には結婚していなかったかもしれないとも噂される。

1918年ごろになると、P・D・ウスペンスキーはグルジエフへの反発を覚えだし、その思想と人物を区別して考えるようになりだす。その背景には、グルジエフの追求する取り組みがコーカサス山中での共同の営みを通じて実践的な性格を強め、内戦に伴う混乱に対応する必要が生じるなかで生じた、一部の生徒に対するグルジエフの態度に対するP・D・ウスペンスキーの批判と、「ムーヴメンツ」の原型となる身体的な訓練や音楽の導入といったことへの不満があったと思われる。

音楽や彫刻といった非常に興味深い道があるというのは、疑いようもないことだ。だが、だれもが音楽や彫刻を学ばなければならないとは思われない。学校では必修科目と選択科目がある。[……] 自分がついていけないような[科目を教える]師を選んでしまうなら、取り組みの最初の時点で誤りを犯すということになる。自分が扱うメソッドや科目とうまが合わない生徒、たとえやってみても意味がわからず、理解する見込みもない生徒とは取り組みを共にしないように注意するのは師の責任であると見なすのが道理だろう。だが、それでもそれが起こってしまい、自分は自分のついていけない師のところで学ぼうとしていたのだとわかったら、そこを離れて別の師を見つけるか、もしも可能なら独力でやっていくしかない。[6]

P・D・ウスペンスキーはグルジエフとは別行動でロシアを脱出した後、1920年からマダムと共にコンスタンチノープルに滞在、ロシア本国を脱出したロシア人を相手にグルジエフに由来する思想を教える。ここでふたたびグルジエフと共に歩むことを試みるが、最終的にこれを断念する。「残念ながら、あなたがたがやっているのは無を空に注ぐようなおしゃべりにすぎない」。ウスペンスキーのもとを訪れたグルジエフのそのようなことばをチェスラヴ・チェコヴィッチが記録に残している[7]。この時期、のちに愛憎半ばする間柄となるJ・G・ベネットと、偶然のきっかけで知り合っている。

ちょうどこのころ、アメリカの出版社からウスペンスキーの元に小切手が送りつけられてきた。その出版社が無断で英訳して出版した『ターシャム・オルガヌム』がアメリカで大ヒットしたのだった。その出版社は、ほんとうは高校中退であるP・D・ウスペンスキーの学歴について虚偽の表示をシていた。この誤りはずっと修正されず、ウスペンスキーは数学者としての経歴がある高学歴の人物で、前途を有望視されたインテリだったという誤解は現在にまで尾を引いている。

P・D・ウスペンスキーは、このようにして得られた名声を利用し、さらにグルジエフから得た知識も活用して、イギリスで運試しすることに決める。マダムはこれに同行せず、それから長いことグルジエフと行動を共にした。自分の意図したことではないにせよ、経歴を偽って出版した本のヒットに依存して精神的な教師としての稼業を始めることで、P・D・ウスペンスキーは、経済との引き換えに多くを失った可能性がある。イギリス人の夫と共にパリに移り住んでいた元恋人のアンナ・ブトコフスキーは、1922年にロンドンで彼と再会し、その変貌ぶりを嘆いた。

彼は外面に硬い殻を発達させていて、ああ彼はどうしてサンクト・ペテルスブルグ時代の柔らかく詩情あふれる内面の輝きを押しつぶしてしまったのだろうと私は思いました。彼は彼自身のそんな側面を弱さと見なしたのだろうけれど、そこから生じる幸せな空気のなかでこそ、彼の霊感とヴィジョンは最高の高みに達したのでした。それは知識をふりかざすのとはまったく違ったことでした。[5]

ここで『イワン・オソキンの不可思議なる人生』に描写された少年時代を振り返るなら、教科に対する不満(ギムナジウムではギリシャ語とラテン語)、教師に反発することでの自己主張、自分のほうからの学ぶ機会の放棄は、オソキンがのちに深く悔やみながらもどうしてもやめられない人生における反復性のパターンだった。

「自分の力を過信していた。自分のやりたいようにやりたかった。恐いもの知らずだった。ふつう人が大事にするすべてのものを投げ捨てて、省みることなく行動してしまった」 「何度も機会に恵まれたのに、どれもこれも逃してしまった。最初の機会がいちばん大事なものだった。まだ若く、こうしたらこうなるということがわからない時分、理解も自覚もないまま、人生のすべて、未来のすべてに影響するようなことをしでかしてしまう。なんてむごいことだろう。」[8]

グルジエフとの絶縁宣言~「システム」の教師~教えの行き詰まり~「システム」の放棄~書き改められた「イワン・オソキン」(1924年~1947年)

1924年1月、P・D・ウスペンスキーは、グルジェフがフランスのフォンテーヌブローで追求する共同の取り組みを「失敗」と断定し、グルジエフからの絶縁を宣言し、自分とグルジエフのどちらを選ぶのかはっきりさせることを生徒たちに求めた。

一九二四年一月、私は、ロンドンで私が指導する複数のグループのメンバーらに対し、自分はG氏および同氏のグループと完全に縁を切り、一九二一年の創始時の方針に従って、独自に自分なりのワークを追求する考えを明らかにした。私とともに留まるか、G氏に従うか、それともワークをきっぱり断念するか、自由にするとよいと言った。私のところに留まる者たちに対しては、もはやG氏のことやフォンテーヌブローでのワークの失敗のことを話題にしないという新しい規則を設けた。[……] 何がまずかったのか? あなたが知りたいというなら、ひとつだけ言おう。このひとつのことだけでも、すべてをだいなしにするのにじゅうぶんだった。このときまでに、彼は彼がかつてロシアでわれわれに教えたところの原則、とくにワークに参加する者たちを選び、しかるべき準備をさせるということをめぐる原則をことごとく破るようになっていた。用意ができていない人たちを受け入れ、彼らを権威ある持ち場につかせ、ワークについて話をすることを許すなどした。このワークは破綻すると私は見て、ロンドンでのワークを救うため、私は彼と縁を切った。[9]

J・G・ベネット夫妻、モーリス・ニコルら、ほとんどの生徒がP・D・ウスペンスキーを選んだ。

その後、P・D・ウスペンスキーはグルジエフよりも自分を選んだ生徒たちに対し、グルジエフに由来する「第四の道」思想の自己流の解釈に基づく「システム」を教えた。1924年7月にグルジエフが交通事故を起こした後、多くの生徒は、グルジエフは事故で精神に異常をきたしたという悪質な噂を信じ、やがてイギリスとアメリカでは、グルジエフは忘れられる一方、P・D・ウスペンスキーをはじめとする元生徒たちがグルジエフに由来する教えを第第的に広めるようになった。

とはいえ、事態は単純ではなく、同じ屋敷内では、戻ってきたマダムがそれとは別に、グルジエフの影響を強く受けた教えを同じ生徒たちに伝えようとし、彼女の呼び寄せた教師がムーヴメンツを教えるといった、おもしろい状態も生じていた。

しかし、やがてP・D・ウスペンスキーは教えに行き詰まりを感じだし、とくに1940年、戦争を逃れてアメリカに映った後は、状況および生徒たちへの不満をつのらせる。アメリカでの滞在の終わりにかけて、ロシア人の秘書であるマリー・セトンは、P・D・ウスペンスキーの教師としての行き詰まりを察し、ついにこれについて問い質したところ、あっさりと認め、「『システム』は自分の稼業になってしまった」と述べたと伝えられる。[10]

1947年になると、P・D・ウスペンスキーは単身でアメリカからイギリスに戻り、初回のミーティングを開く前に、「システム」にお汚染されていないまっさらな人たちに会いたいという思いを口にした。そして1947年2月26日を初日とする6回のミーティングで、「システム」の教師としての自分自身を否定し、実質的に「システム」の死を宣言した。

P・D・ウスペンスキーは1947年10月2日に世を去った。まるで遺書としてあらかじめ用意されていたように、その月のうちに英語版の『イワン・オソキン』が出版された。とくに最後の二つの章が大きく書き改められている。魔術師とオソキンが最後に会話する場面であり、読者はその内容から、グルジエフからの誘いかけにもかかわらず実際には実現しなかったグルジエフとP・D・ウスペンスキーの間での最後の対話の内容を想像することができる。さらにその後、マダム・ウスペンスキーの判断で、現在『奇跡を求めて』として知られる原稿のうち一章がグルジエフのもとに送られ、グルジエフはその出版を許可した。これは1949年に出版されている。

P・D・ウスペンスキーの思想の変遷とその背景

『イワン・オソキン』(1905年執筆、1915年発行、ロシア語版)にあらわれた初期の思想

P・D・ウスペンスキーの思想の出発点を探るには、死後に出版された英語版とはとくに結末の部分が大きく異なる『イワン・オソキンの不可思議なる人生』のロシア語版の内容を知ることが重要である。そこにはP・D・ウスペンスキーに独自なものと、のちに出会うグルジエフの思想を先取りしたと見えるものの両方を認めることができる。

特筆すべき点として、『イワン・オソキン』では、P・D・ウスペンスキー本人の人生と思想の間に、のちに生じたような大きな乖離がない。どのような性格をもって生まれてゆえに、どのような状況で、どのようなことを思うに至ったかが、手に取るようにわかる。『ターシャム・オルガヌム』以降、P・D・ウスペンスキーはこの明快さを失った。

『イワン・オソキン』のストーリーは、同一の時間枠のなかでまた振り出しに戻って人生をやり直すというパラレルワールド的な発想に基づいている。この物語においては興味深い発想であったが、のちに、P・D・ウスペンスキーはこれを教義化し、生徒に教えるようになった。人は死んだ後、ふたたび生まれた年に戻って人生をやり直すという、容易に納得し難い「永劫回帰」の思想は、P・D・ウスペンスキーが死を前にしてこれを否定する発言をした後も、P・D・ウスペンスキーに由来する「システム」の教えの一部としてモーリス・ニコルらによって継承された。

この永遠のくりかえしというテーマに対するP・D・ウスペンスキーの扱い方のニュアンスは、ときとして、人の魂は死なないという思いに結び付いたロマンチックなものとなるが、それは同時に、機械的な反復、人生の無意味性、すべてはただ起こるのみ、自分というものに対する無力といった思いと結び付く。のちに書き改められた『イワン・オソキン』には、機械的な反復のなかで人は生きる機会を浪費する、時間と機会は無限ではないのだという、永劫回帰を部分的に否定し、永遠のくりかえしということのネガティブな側面を強調する視点が追加されている。

『ターシャム・オルガヌム』と「第四次元」

P・D・ウスペンスキーに名声をもたらした『ターシャム・オルガヌム』だが、そこに収められた論述は、論理性を欠き、これを思想と呼べるのかどうか疑問である。

「第四次元」をめぐっては、時間も空間も人間の認識の形式がこしらえたもので客観的な実在性はないのだというイマヌエル・カントの観念論、どうして三次元の空間認識で満足するのか、隠された第四の次元を認識できるようになろうということで著書と合わせてヒントン・キューブなる訓練用玩具を売り出したチャールズ・ヒントンの主張、それに時間を第四の次元とする現在ではごくふつうの四次元の捉え方という三つの見方を、相互間の不整合を省みることなく次々に論じている。「生涯」の項目に収めた引用でジェイムス・ウェブが『ターシャム』を褒め称えながらも、これは学問とか数学とか呼べるものではないと断っているのは、具体的には、論理・哲学面でのこうしたまとまりのなさについて言っている。

英訳版の読者は、出版社による著者の経歴の虚偽の表示のため、偉い数学者がこれを書いたと思い込み、理解できないのは書いてあることの高度さゆえと信じたのではないかと疑われる。これが大ヒットしたことは、P・D・ウスペンスキーの自己認識にも影響したはずである。かつて彼の分身であるイワン・オソキンは、自分の最大の欠点を、およそ考えるということができず、空想のほうにばかりに頭が動いてしまうことだと思っていた。それが『ターシャム』のヒットを機にして、知の巨人と見なされるようになっていく。

その後、P・D・ウスペンスキーは、ハシーシと思われる麻薬を使った「実験的神秘主義」を追求し、神秘的なヴィジョンを追い求めるが、実験を重ねるなか、「これは邪道である」と告げる声をしきりに脳裏で聞いていたという。

「あたかも、常にだれかが私を見ていて、何度も私を説得し、当時の私にはほとんどわからなかったなんらかの道理から、私はこんな道を進んではいけない、これは邪道なのだということを告げ、こうした実験をするのをやめさせようとしていたかのようだった」[11]

P・D・ウスペンスキーは1914年に長いインド旅行をし、そこに取材したエピソードを含めて『悪魔とのおしゃべり』という小説を執筆している。エローラの岩窟で一匹の悪魔と悪魔の仕事につちえおしゃべりする話で、一方では精神的なことに関心がありながら、人生の物質的な側面に強いこだわりをもつ自分自身の二元的な性格に関する理解がうかがえるほか、銃マニアおよび写真マニアとしてのP・D・ウスペンスキーの一面を垣間見ることができる。P・D・ウスペンスキーがインドで撮影した多数の写真は、マダム・ウスペンキーから、彼女のもとでムーヴメンツを教えたジェスミン・ハワースの手に渡った後、ニューヨーク市立図書館に写しが寄贈されている。

P・D・ウスペンスキーによるグルジエフ解釈

P・D・ウスペンスキー自身が「システム」の破綻を認めていることから、彼によるグルジエフ解釈、「自己想起」や「題四の道」について彼がかつて教えたことについて論じるのは、彼自身の遺志に反することとなるかもしれない。以下に触れる考えの多くをP・D・ウスペンスキーは最後には捨て去った、または改めたと思われる。

グルジエフが「時間」そのものから生じる万物を死に向かわせるところの流れをおそらく熱力学第二法則との関係で深く理解し、それに対抗するところの宇宙の仕組みを「三の法則」と「七の法則」との関係で解き明かし、それをエニアグラムをもって表し、下向きの流れに逆らって時間に耐えうるものをみずからの内面に育てることを個人にとっての取り組みの主眼とした[12]。これに対し、P・D・ウスペンスキーは、人は死んだら生まれた年に戻るのだという「永劫回帰」を信じ、イマヌエル・カントがそう言うからということで「時間」は実在しないと説き、魂とは一部の人が生きるなかで内面に育ているものであって、生きることの意味はまさにそこにあるというグルジエフの見解に逆らって、最初から人に備わった魂という考えにこだわった。一部、グルジエフに由来する概念を流用しているが、グルジエフの宇宙観・人間勘と相容れるものではない。

ウスペンスキー:人は四つの部分からなる。体、魂、本質、人格である。本質と人格についてはもう話した。「システム」において、魂という言葉は、生命原理を意味する。精妙な物質もしくはエネルギーがひとまとまりになって肉体に結び付いている。それが体の内部に留まるかぎり、体は生命を保ち、体と魂は一体だ。このふたつの分離をもって、体は死んだという。[13]

ウスペンスキー:体が生まれると同時に魂も生まれる。それはたんに体の一部だ。目に見えず、医学、物理、化学はこれを認めないが、これなしには体は存続できない。体が死ぬと、魂は自由になり、それは巨大な電磁石のような働きをする月によって引き付けられる。[14]

Q:人が自分自身を相手に取り組むというのは、救済を求めて、不死性を求めて取り組むのだとばかり、私は思っていました。

ウスペンスキー:たいそうなことを言う。馬鹿なことをして恥をかきたくないからというなら話はわかる。われわれは眠っているので、いつも馬鹿なことをして恥をかいている。[15]

このような決定的な食い違いもしくは教えの改変と、ウスペンスキー自身による死を前にしての「システム」の放棄にもかかわらず、P・D・ウスペンスキーによる改変を受けた「第四の道」の思想は、後代におけるグルジエフ理解に大きな影響を及ぼした。

P・D・ウスペンスキー自身は、「システム」または「第四の道」の教師としてのかりそめの姿を離れることで、かえって彼がかつて教えていた「自己想起」とは異なる意味で、本来の自分自身に立ち返ったようにも見える。それは表面的な敵味方の関係を越えたところで、彼をグルジエフに近づけたかもしれない。死後まもなく発表された英語版の『イワン・オソキン』の大幅に書き改められた最後の二章の内容から、そんなことに思いを向けることができる。P・D・ウスペンスキーは猫を愛し、書き改められた『イワン・オソキン』の最後の章は、二匹の猫の視線を背中に浴びながら、魔術師の家を出て新しい人生へと向かおうとするオソキンの描写で終わる。

著作と関連文献

日本語に翻訳されたP・D・ウスペンスキーの著書

  • 『超宇宙論』高橋克巳訳 1980/08 工作舎
  • 『奇蹟を求めて』浅井雅志訳、平河出版社 1981/02
  • 『人間に可能な進化の心理学』前田樹子訳、めるくまーる 1991/03
  • 『ターシャム・オルガヌム』第三の思考規範第三の思考規範 高橋弘泰訳 コスモス・ライブラリー 星雲社 2000/06
  • 『新しい宇宙像』(上・下) P・D・ウスペンスキー 高橋弘泰 コスモス・ライブラリ- /星雲社 2002/06
  • 『イワン・オソキンの不可思議なる人生』郷 尚文 訳、電子書籍 2020/11 Amazon Kindle / Google Play
  • 『奇蹟を求めて』 解説付き新約版 全三部 電子書籍 2020/2021 Amazon Kindle / Google Play

ウスペンスキーとその生涯および思想の研究

  • コリン・ウィルソン『二十世紀の神秘家ウスペンスキー』中村正明 訳、河出書房新社 1995/9
  • 郷 尚文『グルジエフ総論:三つのセンター、三つの体~人間に関する伝達』電子書籍 2020/9 Amazon Kindle / Google Play / 楽天

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ グルジエフと知り合うまでのことに関してはWebb, James "The Harmonious Circle: The Lives and Work of G. I. Gurdjieff, P.D. Ouspensky, and Their Followers" Part 1, Chapter 4 "Life against Life"を主要な情報源としてまとめている。グルジエフと知り合った後のことについては、同書のほか、P・D・ウスペンスキー『奇跡を求めて』の記述、グルジエフの著書での言及、グルジエフの生徒たちの回想録での言及など、複数の情報源を典拠としている。
  2. ^ P・D・ウスペンスキー『奇跡を求めて』浅井 雅志 訳、平河出版社、1981年
  3. ^ グルジェフ『魔術師たちの闘争郷 尚文 訳 Amazon Kindle版
  4. ^ Webb, James "The Harmonious Circle" Part 1, Chapter 4 "Life against Life"
  5. ^ a b Belkovsky-Hewitt, Anna "With Gurdjieff in St. Petersburg and Paris"
  6. ^ P・D・ウスペンスキー『奇跡を求めて』第18章
  7. ^ チェスラヴ・チェコヴィッチ『チェコヴィッチの回想録:グルジェフ氏の思い出: 第一編 コンスタンチノープルからベルリン郷 尚文 訳、Amazon Kindle版
  8. ^ P・D・ウスペンスキー『イワン・オソキンの不可思議なる人生』第5章
  9. ^ P・D・ウスペンスキー『人間に可能な進化の心理学』
  10. ^ Seton, Marie "The Case of P. D. Ouspensky"
  11. ^ P・D・ウスペンスキー『宇宙の新しいモデル』第八章
  12. ^ グルジエフ『ベルゼバブが孫に語った物語』第39章ほか
  13. ^ Ouspensky, P. D. "The Fourth Way" Chapter 6
  14. ^ Ouspensky, P. D. "The Fourth Way" Chapter 8
  15. ^ Ouspensky, P. D. "The Fourth Way" Chapter 4

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