Deiraとは? わかりやすく解説

デイラ【Deira】

読み方:でいら

アラブ首長国連邦ドバイ旧市街一つ市街東西流れ運河北側位置する。デイラスーク、ゴールドスーク、オールドスークというドバイ代表する大きな市場があり、それぞれ生地絨毯(じゅうたん)、貴金属香辛料を主に扱っている。


デイラ

(Deira から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/07 14:36 UTC 版)

デイラ王国
Kingdom of Deira

 

450年ごろ–654年
デイラ(DEIRA)の位置(7世紀)
首都 ヨーク
言語 古英語共通ブリソン語
政府 君主制
歴史・時代 中世前期
 •  創立 450年ごろ
 •  バーニシアと同君連合 604年
 •  バーニシアと統合 654年

デイラ ([ˈdrə, ˈdɛərə] DY-rə, DAIR;[1] 古ウェールズ語/カンブリア語: Deywr / Deifr; 古英語: Derenrice / Dere) は、ローマ時代以降のブリテン英語版における歴史的地域。のちにアングル人デイラ王国が成立した[2]

地域・国名

デイラという王国名はブリソン語英語版由来で、さらにケルト祖語*daruに起源をもつ。この言葉は元はオークの木を意味し、現代ウェールズ語におけるderwの語源でもある。そこから派生して、デイラは「ダーウェント川英語版の人々」を意味したと考えられている。マルトン英語版ラテン語デルウェンティオ英語版 (ラテン語: Derventio)[3]や、ロンドンデリー県・都市ロンドンデリーの現代アイルランド語名のデラ (アイルランド語: doire 発音 [ˈd̪ˠɛɾʲə])も同根である[4][5]

歴史

ブリトン人時代

ローマ帝国のブリタンニア支配終焉英語版後、イングランド北部にはローマ支配期以前の部族勢力圏に似たような諸王国がいくつか出現した。ハンバー川ティーズ川に挟まれたDeywrあるいはDeifrと呼ばれた地域はかつてのパリシ族英語版の領域に相当し、この時代には西にエルメト英語版、北にバーシニアといったブリテン人王国が存在し、東側は北海に面していた。

初期のデイラの中心地はかつてのローマの要塞から発展した町ペトゥアリア英語版(現ブラフ英語版)で、考古学調査からこの時期にペトゥアリアが再び要塞化されていたことが分かっている。ペトゥアリアはパリシ族の中心地として繁栄していたが、4世紀半ばから、おそらく港が砂で埋まってしまったために、重要性を失っていた。それ以降は、デルウェンティオ英語版(現マルトン英語版)がこの地域の中心として機能していた可能性がある[6]

デイラにブリトン人の独立王国が存在していたかどうかは定かでなく、デイラ付近を治めていたブリトン人の王の名を伝えるような系譜、詩、年代記などは現存していない。ただローマ撤退後の5世紀前半にエルメトやバーシニアが独立王国となった背景には、権力継承や交代をめぐって激しい争いが繰り広げる文化が存在していたということがあり、デイラ地域もそうした文化のもとにあった。ウェールズ文学では、デイラはコオル老王の死後に数々の諸王国に分裂したヘーン・オグレッズ英語版(古き北部)の一部であったとされている[7][8]

アングル人時代

ブリトン人の勢力下にあったデイラであったが、5世紀の第3四半期にアングル人ダーウェント峡谷英語版に侵入し、王国を建設した[9]。アングル人のデイラ王国もハンバー川からティーズ川まで、東は北海から西はヨーク河谷英語版西端まで広がっていた。のちにデイラ王国は北のバーニシア王国と統合し、ノーサンブリア王国を形成した。

12世紀前半のダラムのシメオン英語版によれば、デイラ王国はハンバー川からタイン川にまで広がっていたが、ティーズ川以北は荒地であったという。エボラクム(実際はエブラウク英語版、すなわち現在のヨークの旧称で呼ばれていた可能性がある)のブリトン人王国はデイラ王エドウィンに征服され、エボラクムは王国の首都となり、エオフォルヴィク(Eoforwic、「猪の地」の意)はアングル人のものとなった[10]

考古学研究によると、この地には5世紀半ばにはアングル人王国の王宮が置かれていた可能性がある。ただ、歴史上はっきりと存在が記録されているのは、6世紀後半のエラ英語版が最初である[11]。エラの死後、デイラ王国はバーニシア王エゼルフリス英語版に征服され、彼の下で以後ノーサンブリア王国となる領域が統一された。616/617年にエゼルフリスがアイドル川の戦いで戦死すると、エラの子エドウィン英語版がデイラ・バーニシア両王国を633年まで統治した[12]

エドウィンの後、甥のオズリック英語版がデイラを支配した。しかしその後を継いだ子のオズウィン英語版は、651年にエゼルフリスの子オズウィ英語版に殺害された。その後数年間は、デイラはバーニシア王オズワルド英語版の子エゼルワルド英語版が統治した[13]

ベーダ・ヴェネラビリスは『イングランド教会史(731年完成)でデイラに言及している[14]

アングル人のデイラ王一覧

在位 名前・英語名 原典表記 備考
559/560年-589年 エラ英語版
Ælla

(Aelli)
ÆLLA YFFING DEIRA CYNING(デイラ王)

ÆLLA REX DEIRA
589/599年-604年 エゼルリック英語版
Æthelric

(Aedilric)
ÆÞELRIC IDING BERNICIA 7 DEIRA CYNING

ÆÞELRIC REX BERNICIA ET DEIRA
バーニシア朝
593/604年?-616年 エゼルフリス英語版
Æthelfrith
ÆÞELFERÞ ÆÞELRICING DEIRA CYNING
ÆÞELFERÞ REX DEIRA
アイドル川の戦いイースト・アングリア王レドヴァルド英語版とエドウィンに敗れ戦死
デイラ朝
616年-632年10月12/14日 エドウィン英語版
Edwin
EDVVIN ÆLLING BERNICIA 7 DEIRA CYNING
EDVVIN REX BERNICIA ET DEIRA
ハットフィールド・チェイスの戦い英語版でグヴィネズ王Cadwallon ap Cadfan英語版とマーシア王ペンダに敗れ戦死。聖人
633年後半-634年夏 オズリック英語版
Osric
OSRIC ÆLFRICING DEIRA CYNING
OSRIC REX DEIRA
バーニシア朝
633年-642年8月5日 オズワルド英語版
Oswald
OSVVALD BERNICIA 7 DEIRA CYNING
OSVVALD REX BERNICIA ET DEIRA
マーシア王ペンダにより殺害。聖人
642年-644年 オズウィ英語版
Oswiu
OSVVIO ÆÞELFRIÞING BERNICIA 7 DEIRA CYNING
OSVVIO REX BERNICIA ET DEIRA
デイラ朝
644年-651年 オズウィン英語版
Oswine
OSVVINE OSRICING DEIRA CYNING
OSVVINE REX DEIRA
殺害
バーニシア朝
651年夏-654年後半/655年 エゼルワルド英語版Æthelwold ÆÞELVVALD OSVVALDING DEIRA CYNING

ÆÞELVVALD REX DEIRA
654年-670年8月15日 オズウィ英語版Oswiu OSVVIO ÆÞELFERÞING NORÞANHYMBRA CYNING

OSVVIO REX NORÞANHYMBRA
復位
656年-664年 アルフフリス英語版Alchfrith ALCHFRIÞ DEIRA CYNING

ALCHFRIÞ REX DEIRA
664年-670年 エグフリス英語版Ecgfrith ECGFRIÞ DEIRA CYNING

ECGFRIÞ REX DEIRA
670年-679年 エルフウィン英語版Ælfwine ÆLFVVINE DEIRA CYNING

ÆLFVVINE REX DEIRA

脚注

  1. ^ A Complete Pronouncing Gazetteer, Or, Geographical Dictionary of the World, 1880
  2. ^ McCarthy (2014年). “An Early Historic Celtic Kingdom near the Solway”. The History Files. 2014年5月18日閲覧。
  3. ^ Higham, p. 81
  4. ^ Library Ireland Archived 8 February 2012 at the Wayback Machine. – Sketches of Olden Days in Northern Ireland
  5. ^ Mills 2003, p. 430.
  6. ^ B. Sitch & A. Williams (1992). Roman Humberside. Humberside County Council Archaeology Unit 
  7. ^ Morris, p. 54.
  8. ^ Koch 2006, pp. 584–585.
  9. ^ Higham, p. 98
  10. ^ Malam 2011, p. 24.
  11. ^ Higham, pp. 77-78
  12. ^ Garmonsway, G. N. (1954). The Anglo-Saxon Chronicle. London: Dent. pp. 26–27. ISBN 0460106244 
  13. ^ D. P. Kirby, The Earliest English Kings (1991, 2000), page 78.
  14. ^ Bede 1910, Book III.

参考文献

関連文献

  • Geake, Helen & Kenny, Jonathan (eds.) (2000). Early Deira: Archaeological studies of the East Riding in the fourth to ninth centuries AD. Oxford: Oxbow. ISBN 1-900188-90-2ISBN 1-900188-90-2


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