アラ・フバイルとは? わかりやすく解説

アラ・フバイル

(A'ala Hubail から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/28 07:57 UTC 版)

アラ・フバイル
名前
本名 アラー・アフマド・ムハンマド・イブラーヒーム・フバイル
A'ala Ahmed Mohamed Hubail
ラテン文字 A'ala Hubail
アラビア語 علاء أحمد محمد إبراهيم حبيل
基本情報
国籍 バーレーン
生年月日 (1982-06-25) 1982年6月25日(40歳)
身長 170cm
体重 66kg
選手情報
ポジション FW
ユース
1998-2002 アル・アハリ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
2002-2005 アル・アハリ 26 (7)
2005-2007 アル・ガラファ 49 (30)
2007-2008 アル・クウェート 17 (6)
2008-2009 ウム・サラル 24 (9)
2009-2011 アル・アハリ 3 (1)
2011-2012 タリーア 20 (6)
2012-2013 ネジメ 18 (5)
2013 タリーア 20 (6)
2014 シトラ 18 (5)
2014-2016 マナーマ 10 (0)
2017 アル・ハーラ 1 (0)
代表歴
2003-2009  バーレーン 69 (23)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

アラー・アフマド・ムハンマド・イブラーヒーム・フバイルعلاء أحمد محمد إبراهيم حبيلA'ala Ahmed Mohamed Hubail1982年6月25日 - )は、バーレーンの元サッカー選手。現役時代のポジションはフォワード

経歴

1997年にバーレーンのクラブ、アル・アハリ・マナーマに加入。若い世代の代表チームに度々招集され、多くの国際大会を経験した。2003年にはアテネオリンピックのアジア予選にもU-23代表の一員として参加。翌年の最終予選まで勝ち進み、同じグループに入った日本を最後まで苦しめた。

2003年、バーレーン代表監督を務めるクロアチア人のスレツコ・ユリチッチ (Srecko Juricic) によって見出され、バーレーンA代表に招集される。2004年に開催されたアジアカップでは、バーレーンのカウンター戦術の核として活躍。準決勝の日本戦では自慢の快足で日本守備陣を翻弄し、2得点を挙げた。最終的にチームは4位に終わったが、自身計5得点を挙げ、アリ・カリミイラン)と共に大会得点王に輝いた。また同年度のアジア年間最優秀選手賞にもノミネートされた。

その後2006 FIFAワールドカップ・アジア予選においても主力選手として期待されたが、2005年2月にクラブチームでの試合で膝の靭帯を負傷し離脱。チームはプレーオフの末敗れた。

カタールリーグの2005-06シーズンでは、開幕にこそ間に合わなかったものの、シーズン後期に復帰しゴールを量産。終了時には得点ランキング4位にまで食い込んだ。

2011年、バーレーン政府への抗議デモに賛同したとして逮捕される。同国代表及び国内リーグでの活動停止処分を受けたため、国外への移籍を余儀なくされた[1]

人物

  • 同じくバーレーン代表選手のムハンマド・フバイル (Mohamed Hubail) は兄。

脚注

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