鹿沼城から再起を図る
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 05:03 UTC 版)
「大永の内訌 (下野宇都宮氏)」の記事における「鹿沼城から再起を図る」の解説
宇都宮城から追放された忠綱は、重臣の壬生綱房を頼り鹿沼城へ逃れた。忠綱派の家臣団は忠綱が追放されると永山忠好のように国外へ逃亡したり、壬生氏のように反忠綱派に徹底抗戦するなど、忠綱追放は周囲に深刻な影響を及ぼした。 大永3年から4年(1523年-1524年)に渡り、宇都宮領内やその周辺で激しい合戦が何度もあったとされ、忠綱派の家臣と反忠綱派の家臣が激しく争っていた。忠綱は鹿沼を拠点とし、古河公方・足利高基と頻繁に連絡を行い宇都宮城への帰城を目指したが叶わず、大永7年7月16日(1527年8月12日))に忠綱は没した。一説によると忠綱派の一角だった壬生綱房が忠綱を見限り、反忠綱派と通じて謀殺したという。忠綱の死により内訌は収束した。
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