鷹山氏と茶筅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 14:39 UTC 版)
鷹山氏が鷹山(高山)を離れた後、帰農した旧臣たちは茶筅(茶筌)作りで生計を立てるようになった。享保21年(1736年)には茶筅は高山村の特産物として知られており(『大和志』)、現代において高山産の茶筅は全国シェアの90%を占めるという。 15世紀中頃の連歌師・宗砌は俗名を高山時重というが、この宗砌(または「高山宗砌」という名の別人)を鷹山頼栄の次男とし、村田珠光の依頼で茶筅を考案したとする伝承がある。ただし事実かどうかについては疑問が呈されている。 また、奈良の宝来で茶筅の作り方を学び高山に戻った甚之丞という人物が豊臣秀吉に茶筅を献上し、それが大いに賞されたため高山村全体で茶筅製造が盛んになったという説もある。
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