首陽大君との葛藤
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/21 16:09 UTC 版)
一方、世宗の治世時から編集されていた《歴代兵要》が1453年春に至って刊行されると、首陽大君は甥である端宗に請じて、同書の編集に功労が大きい臣下に加資させた。当時、河緯地は司憲府執義という重職に昇進したが、敢えて辞退し、王が幼く、国家が危機的状況にありながら王族(首陽大君)が爵賞を用いて朝臣を弄んではいけない、と糾弾した。この一軒で勲臣は河を弾劾したが首陽大君は親しい関係だった河を処罰しなかった。 1453年、河は自分の職責が義理上不可能であると、清海集賢殿直提学に전보された。辞職後は療養のために慶尚道霊山の温井に下がった。
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