須田利信
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須田 利信(すだ としのぶ、1856年4月10日(安政3年3月6日)- 1925年(大正14年)5月25日)は、明治時代から大正時代の造船技師(工学博士)、実業家。日本郵船の副社長を務めた。位階および勲等は従五位・勲三等。
生涯
日向国都城で、薩摩藩島津氏一族である都城島津家の家臣の須田利昌の三男として生まれる。1870年12月分家する。1873年から勧学義塾で学び、1874年に工学寮付属学校に入学し、1875年に工学寮に進学した。1881年に工部大学校を卒業し、工部省の技手となる。のち神戸川崎工場分局に移り技師となり、1884年、農商務省管船局を経て、日本郵船に入社する。
1888年、船舶の発注のためにイギリスに渡り、造船所で監督をしながら造船学を研究した。1892年に帰国する。日本郵船横浜出張所に勤務した後、1898年に日本郵船本社に移り、1915年には副社長に就任する。1920年辞職して横浜船渠の理事や帝国飛行協会理事などを務めた。大正14年5月25日卒去[1]。墓所は青山霊園で、大久保利通墓所の隣に所在している。
家族
- 妻 アキ(都城士族の財部盛邦の長女)元治元年9月生
人物
- 都城町時代の町章をデザインし、市政施行後も使用された。三つの「矢」と「古」を表していた。
- 1927年、国雄が都城の生誕地の敷地679坪と金5万円を都城市に寄贈した。同年9月に公会堂が建設され、後に須田記念館と改称した。公会堂は、1966年に市民会館となり、現在は社会福祉センターとなり記念碑が残されている。
脚注
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