隠棲の末の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 09:48 UTC 版)
「スキピオ・アフリカヌス」の記事における「隠棲の末の死」の解説
晩年のスキピオはカンパニア地方のリテルヌム(Liternum)で過ごすようになり、2度とローマには戻らなかった。そして紀元前183年頃に死去したと言われている。奇しくも彼の死と同時期に、最大のライバルであったハンニバルもローマの度重なる追及によって亡命を繰り返した末、カルタゴから遠く離れたビテュニアで自害した。 晩年のスキピオの記録はあまり残っておらず、その死因も不明である。同時代人による彼の死や葬儀についての証言は見受けられない。 また、死に臨んだスキピオは先祖代々の墓に入ることを拒否し、自らの墓石に「恩知らずの我が祖国よ、お前は我が骨を持つことはないだろう」と刻ませたと言われている。彼の墓はどこにあったのか、終焉の地となったリテルヌムに埋葬されたかどうかも分かっていない。しかし150年程後の帝政ローマ初期には彼の墓は知られていたらしく、アウグストゥスが参拝したということだけ記録に残っている。
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