長昌寺 (前橋市)とは? わかりやすく解説

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長昌寺 (前橋市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/25 00:56 UTC 版)

長昌寺
所在地 群馬県前橋市紅雲町1-9-14
位置 北緯36度23分7秒 東経139度3分39秒 / 北緯36.38528度 東経139.06083度 / 36.38528; 139.06083座標: 北緯36度23分7秒 東経139度3分39秒 / 北緯36.38528度 東経139.06083度 / 36.38528; 139.06083
山号 芳林山
院号 栄興院
宗派 曹洞宗
創建年 延徳元年(1489年
開山 大洞禅師
開基 長野方業
文化財 本城氏の墓3基(前橋市指定史跡)
公式サイト 芳林山栄興院長昌寺‐前橋市
長昌寺
長昌寺 (群馬県)
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長昌寺(ちょうしょうじ)は、群馬県前橋市にある曹洞宗寺院

歴史

1489年延徳元年)、長野方業の開基である。方業は厩橋城(後の前橋城)の城主であり、大洞禅師が伊香保温泉湯治をしていることを知り、大洞禅師を城下に招いて寺を創建した[1]

江戸時代、当寺は藩主酒井氏菩提寺ではなかったが、その家臣御用商人が檀家となっている。檀家になった家臣の代表例として、元最上氏の家臣で、改易後に酒井忠世に召し抱えられた本城満茂などがいる[1][2]

しかし1749年寛延2年)に酒井氏は姫路藩に転封となり、後任の松平氏も前橋城が利根川に浸食されたため、川越城に居城を移転、有力檀家の減少で次第に寺運衰微していった。1879年明治12年)時点で、檀家は39戸に激減していた[1]

明治中期、新潟県出身の野中倉吉という実業家が「前橋で一番の貧乏寺を菩提寺にする」と宣言、野中家が檀家となったことで次第に復興していった[1]

文化財

  • 本城氏の墓3基(前橋市指定史跡 昭和54年3月26日指定)[3]

交通アクセス

脚注

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  1. ^ a b c d 長昌寺について長昌寺
  2. ^ 群馬県高等学校教育研究会歴史部会 編『群馬県の歴史散歩(歴史散歩10)』山川出版社、2005年、6p
  3. ^ 市指定文化財一覧前橋市

参考文献

  • 群馬県高等学校教育研究会歴史部会 編『群馬県の歴史散歩(歴史散歩10)』山川出版社、2005年

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